二 皇帝夫婦は、竜神に呪われた。⑤

 璃璃の夢に現れた竜神の告げと飛雪から教えられた伝承を踏まえると、今わかっているかいじゆかぎは「愛のあるくちづけ」で間違いはなさそうだ。ならば試してみるべきだと璃璃は考えたのだが、星火のほうは皮肉っぽく苦笑した。

「呪いを解くのに必要なのは、『愛』とやらだぞ?」

「愛にも種類はございましょう」

「種類か。たとえば?」

「ともに馬鹿げた状況に巻き込まれた相手に対するあわれみのような情は、昨日よりは多めに芽生えておりますわ。それにわたくし、それっぽくふるまうのは得意ですの」

「竜神がだまされると思うか?」

 星火が疑わしげに目をすがめたが、璃璃は真剣である。

「何事も試さないことには状況は変わりません。陛下、どうか──」

 璃璃は寝台に手をつき、星火を間近から見つめた。

「ご容赦を」

「おい、ちょっと待て」

「大丈夫。目をつぶっているうちに済ませますわ」

 星火の手をつかみ、半ば強引にくちづけようとすると、額をぴしっとはじかれた。

「いや、状況がおかしい」

「……どこがですか」

「俺が俺の顔をした男に襲われているんだぞ。おかしすぎるだろう」

「ですから、目を瞑っているうちに済ませると申しましたのに」

 くそ面倒くさい男ね……とつい黒い本音が漏れそうになる。

(もう無理やり奪ってしまおうかしら。どうせ身体はわたくしなのだし)

「陛下、少しのあいだ黙っていていただけますか?」

「だから待てと──」

「黙って」

 先に口をふさいでしまおうと星火のあごをつかむと、

「っ!?」

 問答無用でかんりが飛んだ。

 青天のへきれき、空前絶後の痛みが璃璃を襲う。

 しばらく身もだえしたあと、「何をなさるんですか!」と涙目になって璃璃は叫んだ。

「陛下の大事なブツですよ! 機能しなくなったらどうするんですか!」

「うるさい! 昨日から感じていたが、そなたは自分の扱いが雑すぎる!」

 ぴしゃりと言われて、璃璃は思わず口をつぐんだ。

 自分の股間を蹴った男に言われたくなかったが、なぜかうまく言い返すことができない。

「べ、べつに、わたくしは何も雑になんかしてません。いつだって自分が好きなようにふるまっております。今も──」

「震えている」

「は?」

「手が震えている」

 星火が璃璃の手に目を落とす。

 確かにその手はかすかに震えているように見えた。璃璃の頰に熱が集まってくる。

「ち、ちがいます! 陛下の見間違いでしょう!?」

 ぱっと手を引き寄せて言い返す。

 後ずさろうとすると、背後の窓から射し込んでいた残照がふいに途切れた。

 直後、視界が二重にぶれるような激しい眩暈めまいが璃璃を襲う。

「な、なに……?」

 よろめいた璃璃の耳奥に、ざあざあと夕立に似た水音が響きだす。

 ──よくお聴き、竜帝のきさきよ……。

 そして、大きなふいごを思わせる竜の声。

 ──呪いを解くためには……。

 そのとき、嵐のようなごうおんを立てて、竜がくしゃみをした。

「きゃっ!」

「うわっ!」

 体勢を崩した璃璃を星火が腕を差し出して受け止める。

 寝台から転げ落ちる寸前で、星火の広い胸に突っ伏すことになり、「し、失礼いたしました」と璃璃はびた。そこで違和感に気付き、はたと顔を上げる。

 星火の身体が大きい。先ほどと目線も違う──もとの成人男性のすがただ。

 そして、璃璃もまたもとの少女の身体に戻っていた。

「戻っているな……」

「戻っておりますわね……」

 星火は璃璃の身体をしとねのうえに下ろした。思ったより丁寧な手つきだ。

 直前まで自分を雑に扱っているだのなんだの論争していたので、少々気まずくなる。そのことをまた追及されたらいやだなと思ったのだが、星火は別のことを言った。

「くちづけはしていないが、なぜ戻った?」

「それ以外の条件だったのでしょうか? よくわかりませんわ」

 顔を見合わせ、双方、大きく息をついた。

「ひとまずよかった……」

 つい心からの言葉がこぼれてしまう。

 このまま明日あした以降も永遠に戻らなかったら、今後の生活について本格的に策を練らなくてはならないところだった。なんだかわからないが、竜神の気まぐれで呪いが解けたならおおいに結構だ。

「ほら」

 星火は先ほど璃璃が脱いだ上衣を押しつけてきた。

「なんですか?」

「なぜそなたはいちいち突っかかる。……熱を出していただろう」

 いつもの自分だったら、弱みを見せたくなくて隠しただろうが、身体が入れ替わっていたときにすでにばれている。「そうですね……」と落ち着かない気分になりつつ、もらった上衣のえりをかき寄せた。

「あっ、陛下も一物はご無事ですか?」

「……ご無事に決まっているだろう。つくづく不敬なやつだな」

 つぶやいたあと、「まあでも」と星火は思い直したようすで続けた。

「蹴ったのは悪かった。もうしない」

 不意打ちの言葉に璃璃はぽかんとしてしまう。

 ──謝られるとは思わなかったのだ。さっきも、今も。

 殴られることも、蹴られることも、日常だった幼少期を送っていた璃璃である。貴い身分のひとというのは、下の身分の人間を思いやったり、非を認めて謝ったりするものではないと思っていた。

「結局、蹴られたのは陛下の身体ですけどね」

 足指をもじもじさせつつ、困惑を悟られないように声を張った。

 星火が立ち上がったので、「お戻りですか?」と尋ねる。

「さすがに今日はもういい。処理すべき文書はまっているんだろうが」

 寝室と扉一枚を隔ててつながった居室に移ると、星火は春雀に命じて湯を持ってこさせた。備え付けの棚から花鳥が描かれた茶器をふたつ取り出す。

「お茶なら、わたくしがれますよ」

「いや、よい」

 昨日と同じように断ったあと、星火は少し考え込むそぶりをした。

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