二 皇帝夫婦は、竜神に呪われた。④

 竜廟へのさんけいのあとは、祝いのために訪れた百官の長や各国の使者への応対だ。

 これは迎賓用のすいれんきゆうの広間にを下ろして行われる。

 皆の目がある婚姻の儀式を昨日終えていたのがまだ幸いといえるのか。祝いの品に対する返礼の口上は儀礼的なもので、あらかじめ言葉さえ覚えていれば、璃璃でもどうにか対応できた。

「まことに見事な祝いの品でござい……であった。貴公とはかねてより……」

 璃璃が言葉に迷うと、隣に座した星火がすばやく文章を書いてす。走り書きのわりにうつくしい文字を読み上げて返すと、どの客人にも疑われることはなかった。

(入れ替わった先が蛙でなくて、まだよかった……)

 むねで下ろしかけてから、「だめよ、状況に慣れては!」と璃璃は己を𠮟しつする。このままずるずる皇帝との入れ替わり生活を続けるなどまっぴらだ。

 ひとまず竜神の告げと伝承に基づくなら、「愛のあるくちづけ」とやらを試すほかないのか。

(せめて愛がある『風』を装うくらいはできるかしら……)

 璃璃はいつも持っている絹団扇うちわの代わりに扇を振りつつ考える。猫かぶり姫の異名を持つ自分なので、演技なら大得意だ。果たして演技で竜神の呪いが解けるかはわからなかったが……。

(でも何も試さないよりはマシよ!)

 扇をぱしりと閉じて、璃璃は腹をくくる。

 客人への応対を終えたあと、一度着替えて、月燈後宮の居室に戻る頃には陽は傾きかけていた。昨晩のような大がかりな宴は今日はない。

「陛下? 陛下、どこにいらっしゃいますか?」

 睡蓮の透かし彫りが入った扉を開けると、なぜか星火のすがたがない。

 どこへ行ったのだろうとそば仕えの春雀を呼びかけて、しようとうからくんすそがはみ出ているのを見つけた。てんがいをめくると、しとねのうえにぐったりと少女が横たわっている。頰が赤い。微熱があるのか。

「あらあら、かくれんぼですか、陛下?」

 璃璃はひざをついて、薄く目を開けた少女すがたの星火と目を合わせた。

 星火がおつくうそうに寝返りを打つ。

「……うるさい。りゆうびようへの参詣だけで熱を出すとは、どういう身体なんだこれは……」

「姫君なんて皆そんなものですわ。日頃鍛錬をしている陛下とはちがいます」

「なんで俺が鍛錬をしているかわかるんだ」

「そんなもの、身体を見ればいちもくりようぜんでしょう? 立派な衣を着ていたときはわかりませんでしたが」

 衣をめくると、適度に筋肉がつき、引き締まったたいが見て取れた。日頃から武芸の鍛錬に励む男の身体だ。

 星火はまばたきをしたあと、耳の端を赤く染めた。

「そなたは少しは慎みというものを持て!」

「陛下は見た目よりもお可愛らしいんですのね。あ、今は見た目もお可愛らしいんだったわ。とにかく慣れない身体でお疲れでしょう」

 璃璃はそば仕えの春雀を呼び、湯を用意させた。

にやんにやんは……」

 不安そうに尋ねてきた春雀に、「少し熱を出したみたいだ」と璃璃は答える。

 春雀の目には璃璃は星火に見えているので、いつもよりだいぶよそよそしい。

「あの、わたしが娘娘のおそばについていてはいけませんか?」

 もともと小さな声を必死に張って春雀が申し出る。

「慣れない後宮で不安かと思いますので……」

「……相変わらず健気けなげな子ね」

「はい?」

 つい素の口調でつぶやくと、春雀はげんそうに璃璃を見上げた。

 みどりの大きな眸には皇帝のすがたが映っている。璃璃は微笑んだ。

「でも、今夜は后のことはわたしに任せてくれ。悪いようにはしないから」

「はあ……」

 困惑気味に視線を彷徨さまよわせ、春雀はしぶしぶうなずいた。

 褥のようすを気にしつつ春雀が辞去するのを見届け、璃璃は星火の足元にたらいを持っていく。陶製の盥に焼石を入れて温めた湯である。花の精油を垂らすと、ほのかな芳香が加わった。

「ほら、お足をどうぞ」

「俺の顔をした男に世話をされるのは複雑なんだが」

「陛下はいちいち細かいことを気にされますね。お年頃の乙女ですか」

 璃璃はあきれた顔をした。

 靴を脱がせると、竜廟への階段を上り下りしたせいで足が赤く擦り切れていた。昨日も薬草を染み込ませた布で一度手当てしたのだが、悪化している。

 かがんで足を洗うのを手伝っていると、

「……昨日は悪かったな」

 璃璃のつむじに目を向けながら、ぽそりと星火がつぶやいた。

「この身体では、竜廟までの階段を上るのは酷だったろう。気付かなかった」

「……あら」

 璃璃は驚いて星火を見返した。かしずかれることが当たり前の皇帝がわざわざ謝るとは思わなかったのだ。

「ご厚情痛み入りますわ。陛下にもひとを気遣う心がおありとは」

「そなたはいちいち突っかからずにはしゃべれないのか?」

 へきえきとした表情で息をつかれ、「そのような」と璃璃は口ごもる。

 確かに星火に対してはやたらと突っかかったり、嫌みを言ったりしている自分に気付いたのだ。

「そのようなことは、普段はしないのですが……。陛下が相手だと、つい余計なことを申してしまいます。困りましたね……」

「困っているのは俺だが。まあよい。腹のうちを隠して、にこにこ笑われるほうが不快だ」

 璃璃から受け取ったしゆきんで足をくと、星火は盥を横に押しやった。

「陛下」

 そこで考えていたことを思い出し、璃璃は星火に向き直る。

 足を洗うのを手伝っていた名残で床に膝をついているため、床榻に腰掛けた少女すがたの星火のほうが目線が高い。璃璃も鬼ではないので、熱を出しているひとはいたわってやりたいが、事は急を要している。

「──試してみますか」

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