二 皇帝夫妻は、竜神に呪われた。②

    ▽▲▽▲


 竜廟は竜鱗宮の背に鎮座する山の中腹にある。

 山を切り開いて造った廟で、途中までは輿こしを使って移動するが、竜廟に至る最後の階段はせんにかかわらず、自らの足で上らなくてはならない。

(陛下……大丈夫かしら)

 少し後ろを歩く星火に目をやり、璃璃は首を傾げた。

 少女すがたの星火は胸に手をあて、ぜーぜーと荒く息を吐いている。

 昨日の儀式で上ったときにも感じていたが、女子どもが上るには向かない急な石段なのだ。しかもそれが千段以上続く。竜廟へのさんけいとあって、くんではなく、動きやすいはかま穿いてきているが、それでも少女の身体に慣れない星火にとっては酷だろう。

「后」

 はじめは放っておいていたが、さすがにかわいそうになってきて、璃璃は星火に声をかけた。

「だいぶ息が上がっていらっしゃ──いるな。輿を使おうか?」

「いらぬ。余計な気を回すんじゃない」

 けんしわを深めて、星火が突き返した。

 とても皇帝に対する后の態度ではなく、璃璃は内心はらはらしてしまう。「ですわ」まで真似をしろとは言わないが、せめてもう少し后らしい話し方をできないものか。長い努力によって作り上げた梅の花精のごとき姫君像を二日目から壊されたら大変だ。

「まったく困った后だな……」

 肩をすくめて、璃璃は星火の手を取った。

 今は上背がある自分より、だいぶ小柄な身体を抱き上げる。やってみるのははじめてだったが、存外たやすく少女の身体は腕の中におさまった。

「おい、何をしている?」

 璃璃にだけ聞こえる声で、星火が詰問する。

「陛下が輿はいやだとおつしやるので、別の手段を取ってみました。わたくしって、まるで春風のように軽いんですのね?」

 うっとりと頰を染めると、「そういう話をしてるんじゃない」と星火はいやそうな顔をした。

「早く下ろせ。俺を何だと思っている」

「そのように愛らしいお顔で仰られても、微笑ましいだけですわ」

「いい加減口を慎まないと、不敬罪でろうにぶちこむぞ。あと、ですわをやめろ」

「しつこい方ね……」

 ひそひそと言い合いながら階段を上っていると、

 ──ねえ見て! あの陛下がお后さまを気遣っておられるわ!

 そば仕えの宮女たちが何やら色めきだった。

 ──やっぱり后陛下がお相手だと、ちがうものなのねえ。

 ──伝説では皇帝陛下は后陛下だけを一途に深く愛されるのでしょう? そういうものなのよ!

 彼女たちの目には、もの慣れぬ后を皇帝が気遣っているように見えたらしい。しかも、皇帝の変容ぶりを夫妻のつがい伝説に結びつけて、沸き立っているのだ。

 いっこうに后らしくしゃべらない星火を黙らせたいのと、無理して歩いているのが少々かわいそうで抱き上げただけだが、周りからはそういうふうに受け取られるのか、と璃璃は感心した。

「ほら、皆さんもああ仰っておりますし、おとなしく運ばれていてくださいませ」

「結構だ!」

 言うや、星火は璃璃の腕から抜け出し、階段のうえに下りた。

 あーあ、と宮女たちが残念そうに息をつく。しかし、なんだか微笑ましげなまなしである。

 氷帝陛下というよりまるで懐かない猫のようね、と璃璃は苦笑した。

 昨日よりも楽々と階段を上りきり、竜廟の表門にたどりつく。

 せいな彫刻が彫られた左右の石柱のあいだを抜けると、釣りどうろうあかりがともった赤の廟が現れた。屋根や柱にも朱色の塗料が使われており、うっすら漂う霧さえほのかに色づいたように見える。

 きのうの婚礼のような重大な国事以外で、竜廟の中に入ることができるのは、竜神のまつえいである皇帝ときさきだけだ。ほかの者たちは、門の外にある控えの館で待つことになる。

「后」

 ふたりきりになったからか、そう呼び、星火が竜廟の扉を開けた。

 中は薄暗く、祭壇の前に置かれた青磁の香炉から潮風を思わせる清らかな香りが立ちのぼっている。すいれんが透かし彫りされた窓から光が射し、足元の石床を静かに照らしていた。

 廟の中では竜儀官の飛雪が睡蓮を模した紙花を献花台に供えているところだった。

 飛雪は白い長衣を身に着けているため、薄闇でもかすかに浮き上がって見える。年齢は星火より八つ年上の二十九歳だと聞いた。飛雪の父親・鹿ほくおうは先帝の弟にあたるため、星火と飛雪は従兄弟いとこである。

「飛雪兄上」

 星火が声をかけると、振り返った飛雪が「おや?」とまばたきをした。

 そのひとみは星火とは異なる、そうぎんの色彩をしている。市井では見かけないめずらしい色だ。確か飛雪は《加護あり》と呼ばれる、皇族の中でも初代竜帝に近い容姿をしているという。

「太子……いや陛下。今日は身体と魂の位置がおかしなことになってない?」

「やはりわかるのか……」

「ふふっ、わかりますよー」

 飛雪はにっこり笑った。神秘的ながんぼうが人懐っこいものに変わる。

「わたしは一族の中でもとくべつ《目》がいいからね。今日はずいぶんお可愛らしいすがたでいらっしゃるね、星火。氷の君はもうやめちゃったの?」

「黙れ、楽しそうに見るな」

「記念になでなでしていい?」

「何の記念だ!」

 飛雪が伸ばした手を星火はぺしりとたたき落とす。

 仲良しともちがうが、従兄弟同士のためか、独特の気の置けなさも感じる。

 しかし、それよりも璃璃は飛雪に入れ替わりをあっさり言い当てられたことのほうに驚いてしまった。

 ちなみに参拝までのあいだに皇帝と后の中身が入れ替わっていることに気付いた者はいない。幼い頃から璃璃のそば仕えをしていた春雀でさえそうだ。璃璃だって実際にこんなことが起きなければ、聞いても信じなかっただろう。

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