第5話 王国の序列

 部屋の中には、まだ新しい木の匂いが残っていた。


 調度はすでに運び込まれているが、配置は仮のまま。

 ここが「公爵令嬢メイリーンの控室」になると知っていても、東宮の人間たちは、まだ距離を測っている。


 その中央で、ジャイアナが腕を組んで唸っていた。


「昨日の王太子、ムカついたのだ!」


 あまりにも率直な感想だった。


 オデットは、カーテンの位置を確かめながら、小さく息を吐く。


「お姉さま、感情論で片づける話ではないわ」


「でも、メイ様への悪口は許せないのだ!」


 間髪入れず、まっすぐな声。


 一拍置いてから、静かに答えるオデット。


「……気持ちは私も同じよ」


 それだけで十分だった。


 ジャイアナは満足そうに頷く。


 そのとき。


 扉が、断りもなく開いた。


「ほう……」


 間延びした声とともに、男が足を踏み入れてくる。


 王太子ミサラサ。


 護衛と呼ぶには心許ない近侍たちを従え、ここが自分の庭であるかのように部屋を見回した。


「まだ準備中か」


 鼻で笑い、吐き捨てる。


「あの女に注意しに来てやったんだがな」


 視線が、すぐに止まった。


 オデットだった。


 整った顔立ち。

 背筋の伸びた立ち姿。

 知性を隠そうともしない、静かな眼差し。


「……侍女か」


 王太子の口元が歪む。


「思わぬ宝がいたな」


 距離を詰め、値踏みするように顎を上げる。


「おまえ、俺のところに来い。悪い扱いはしない」


 一瞬で、空気が冷えた。


 オデットは眉一つ動かさず、淡々と返す。


「……失礼ですよ。私の主君は、メイリーン様です」


「は?」


 王太子が、心底おかしそうに笑った。


「俺は王太子だぞ」


 苛立ちを隠そうともしない声。


「逆らっていい立場だと思っているのか?」


 オデットは、わずかに首を振る。


 呆れに近い動きだった。


「何もご存知ないのですね」


 感情を交えず、事実だけを並べる。


「王国において、ミサラサ王太子の地位は、メイリーン様より下です」


 近侍たちが、ざわりと息を呑んだ。


「兵の質も、数も。権限も。すべて」


 王太子の顔が、みるみる歪む。


「き、貴様……!」


「そもそも」


 オデットは一歩も引かない。


「私は禁図書館の司書です。下に見られては困ります」


 つん、と顎を上げる。


 王太子は一瞬、言葉を失った。


 次の瞬間、怒鳴り声が響く。


「こいつらを捕らえろ! 不敬罪だ!」


 近侍たちが、命令に従うべきか迷いながら前に出る。


 ――その瞬間。


 ずし、と床が鳴った。


 ジャイアナが、一歩、前に出ただけだった。


「へへっ」


 楽しそうな笑み。


「あんたら、私と戦うのだ?」


 二メートル近い白騎士。

 帯剣した体躯が、壁のように立ちはだかる。


 近侍の一人が、無意識に足を止めた。


 剣に手はかかる。

 だが、誰も抜けない。


 王太子が声を荒げる。


「な、何をしている! 命令だ!」


 返事はない。


 ジャイアナは首を傾げた。


「来ないのだ?」


 本気で不思議そうな声音だった。


 沈黙が、重く落ちる。


 その中で、王太子はようやく理解した。


 ここでは――

 自分の命令が、何の意味も持たないということを。


「……覚えていろ」


 捨て台詞だけを残し、踵を返す。


 近侍たちが、慌てて後に続いた。


 扉が閉まる。


 しばらくして、ジャイアナが振り返った。


「な?」


 誇らしげでもなく、ただ事実として。


「ムカついたのだ」


 オデットは、ようやく肩の力を抜く。


「ええ……お姉さま」


 小さくそう呼び、閉じた扉へ視線を向けた。


「ですが、これではっきりしました」


 王太子は、知らない。


 この国での序列を。

 そして――自分が、どこに踏み込んだのかを。


 その代償が、どの形で返るのか。


 それを知るのは、まだ少し先の話だった。

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