第4話 婚約者の価値

「ここが東宮なのかー。初めて入ったのだ」


 これまで王太子の関係者以外、立ち入りを許されなかった場所。


 のんきな声が、妙に静かな回廊に響いた。


 天井近くまで届きそうな長身の女――白騎士ジャイアナ。

 オデットの姉でもある彼女は、帯剣した軽装のまま、その体躯だけで周囲の空気を圧している。


 その一歩前をメイリーンが歩く。


 オデットが声を潜めた。

「……それにしては、人の気配が軽すぎますね」


 本来、東宮は人の出入りが多い場所。

 侍従、文官、警護。主には男性が担当する。


 だが今、回廊にいるのは女ばかりだった。


 奥から、かすかな声が漏れてくる。


 笑い声。

 甘えた調子の女の声。


 メイリーンは足を止めず、呟く。

「女の数が多すぎるわ」


 オデットが頷く。

「通常であれば、東宮は王太子教育の場です。女性は最少化されるはずなのに」


「……まともな兵士が少ないのだ」

 ジャイアナが低く唸った。


「守護や教育の人員配置ではありませんね。これは女性を囲うため……いえ、囲われているのは、王太子本人かもしれません」


 オデットの言葉に、メイリーンは何も返さず、歩みを進める。


 庭園に近づくにつれ、甘ったるい香が濃くなった。


 視界の先、噴水のそば。

 女たちを侍らせ、酒杯を傾ける王太子ミサラサの姿が遠目に見えた。


 庭園入口で、侍従が慌てて姿勢を正す。


「こ、この奥へは……殿下は現在、お取り込み中で――」


「承知しています」

 メイリーンは穏やかに遮った。

「本日は挨拶ではありません。様子見だけです」


「え……?」


「婚約者が、どのように過ごしているかを見るのは、不自然ではないでしょう?」


 侍従は言葉を失った。

 立場上、否定する余地はない。


「……失礼いたしました」


 道が開く。

 さらに歩みを進めると、笑い声が、はっきりと耳に届いた。


 女の影が王太子にもたれかかる。

 彼はそれを払いのけもせず、指先で髪を絡め取って笑っている。


 表情を変えないメイリーン。


 (婚約者がいるのに……!)

 オデットは眉をひそめ、ジャイアナの歩幅が、わずかに詰まった。


 ――殺気ではない。

 だが、剣士が「距離」を測るときの、静かな緊張。


 酒に酔った男女は、彼女たちの存在に気づかない。


 メイリーンは、さりげなく手を下げ、姉妹に足止めを指示した。


 そのとき、笑い声に混じって、女の声が届く。

「ミサラサさまぁ〜、なんで婚約しちゃったのお?」


「政治だ。公爵の娘でなければ婚約しなかった」

 饒舌な男の、軽い笑い。

「俺の前に来る女で、あそこまで地味なやつは初めてだ」


「でも、顔合わせはしたんでしょ?」


「顔を見ただけだ。遅刻したくらいで帰りやがったからな。無礼な上に、美しくもない……価値のない女だ」


 オデットの表情が、一瞬で凍る。


 言葉を飲み込み、背筋を伸ばす。

 主君が沈黙している以上、彼女は従う。


 ――その隣で。


 ジャイアナの親指が、無意識に剣の鍔へとかかる。


 音はない。

 だが、それだけで十分だった。


(ちょっ、お姉さま……!)


 小声で押さえるオデット。


 メイリーンは唇に指を当て、かすかに首を振った。


(ありがとう。でも、今は帰りましょう)


 小さく、姉妹だけに伝える。


 ジャイアナは一拍だけ遅れて、指を離した。

 その動作は、戦場で命令を受けた騎士のものだった。


 接触は最小限。

 集めるのは、情報だけ。


(王太子本人に、深入りする価値はないわ。……彼には、いずれ、相応の結果が返ることになる)


 それは感想ではない。

 選別だった。


(戻りましょう。彼の背後を探る必要がある)


 三人は踵を返す。


 すぐに引き返してきた一行に、侍従が驚いた顔をする。


「殿下には……」


「ええ。たしかにお取り込み中でした」


 メイリーンは小さく微笑んだ。


「お勤め、ご苦労さまです」


 そう言って、その場を離れる。


 庭園の笑い声は、背後で続いていた。


 その中心にいる男は、まだ気づいていなかった。

 自分が、見られ、測られ――そして、外されたことに。

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