第3話 空腹と準備
王宮から戻ったメイリーンは、部屋に入るなり椅子に腰を下ろした。
「お腹、すいたわ」
ぽつりと零れた声は、誰に向けたものでもなかった。
侍女オデットが一度だけ頷き、給仕たちに指示を出す。
「全ての食材の使用を許可します。戦時速度で用意を」
慣れた動きだった。
ほどなくして運ばれてきたのは、山のように盛られた温かい食事。
湯気の立つスープに、焼き目のついた肉。
メイリーンの喉が、わずかに鳴った。
ごくり、と小さく唾を飲み込む。
爛々と輝いた瞳は皿から離れず、ほんの一瞬、指先が宙で止まった。
――待て。
そう自分に言い聞かせるように、伊達眼鏡を外し、テーブルの端に置く。
そして、もう我慢はしなかった。
もぐ、と小さく音を立てて噛む。
咀嚼は早いが、雑ではない。
一口ごとに、きちんと味を確かめているのがわかる。
スープを含めば、ほっと息をつくように喉を鳴らし、
肉に歯を立てたときには、口元がほんのわずか緩んだ。
オデットは何も言わず、その様子を見守っている。
「いつものことですが、細い身体によく入りますね」
淡々とした指摘だった。
メイリーンは一瞬だけ、手を止める。
「……そんなに食べたかしら」
「今ので、四人前です」
数秒の沈黙。
「……」
メイリーンは視線を逸らし、もう一度、肉を口に運んだ。
「……運動するから、大丈夫」
そう付け足してから、再びもぐもぐと食べ始める。
スープを飲み干し、最後に残ったパンで皿を拭うようにして――
それから、ようやく一息ついた。
食後に運ばれてきた、小さな菓子皿。
控えめな甘さの焼き菓子。
少しだけ目を細めて、それを口にした。
ほんの一瞬、表情が緩む。
それを、オデットは見逃さなかった。
「では、訓練場を準備させておきます」
「お願い」
食事は、最後まで残さず平らげられた。
立ち上がり、軽く肩を回す。
その動きに、先ほどまでの“地味な婚約者”の気配はない。
「東宮のお部屋の用意は、いつになさいますか?」
オデットの問いに、メイリーンは即答した。
「最速で使えるようにしておいて」
迷いはなかった。
「まだ国境で、みんなが戦っている」
声は低く、淡々としている。
「王都にいる期間を、無駄にはできないわ」
理想でも、感情でもない。
彼女にとっては、ただの判断だ。
「承知しました。私と姉は立入許可を得ておりますので、遅くとも明後日、二日以内には部屋を整えます」
「助かるわ」
短く答え、メイリーンは歩き出す。
食事の温もりも、甘味の余韻も、すでに表には出さない。
「化粧を落としたら、訓練場へ」
そう言って、彼女は部屋を出た。
王宮は、まだ何も気づいていない。
静かに、全てを覆す者が戻ってきたことを。
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