真理の対価

月雲花風

真理の対価

私立黎明学園。

その壮麗な時計塔が午後四時の重い鐘を鳴らすと、生徒たちのスマートフォンが一斉に、虫の羽音に似た不快な電子音を奏でる。


それは授業の終わりを告げる音ではない。

この閉鎖的な聖域を駆動させる真の心臓——校内通貨『ロゴス』の市場変動を知らせる合図だ。


廊下の巨大なモニター。

そこには株価チャートにも似た「噂」の価値が残酷なまでの精度で投影されていた。


『二年A組の隠蔽工作:3000L』

『次期生徒会長の交際疑惑:急落中』


無機質な光が絶え間なく明滅し、通り過ぎる生徒たちの欲望と猜疑心を淡々と、しかし確実に煽っていく。


ここでの「ロゴス」は、単なる通貨ではない。

一円が一つの真実と等価交換されるわけでもない。


この学園において他人の秘密こそが最も強固な資産だった。

そして情報の欠落はすなわち——社会的な死、あるいは破産を意味していた。




ここでは学力も家柄も無意味な記号に過ぎない。

最上位の価値を持つのは「情報の真偽」。

そして、それを数値化した『ロゴス』こそが生徒たちの階級を冷徹に決定づける唯一の法だった。


瀬戸口結衣は静まり返った図書室のカウンターで端末に浮き上がる青い数値を眺めていた。


表向きは目立たない図書委員。だがその裏側で彼女は図書室という情報の交差点に立ち、学内の噂話をデータとして処理する策士の顔を持っていた。


彼女にとって人間の感情は計算を狂わせる「ノイズ」に過ぎない。


世界のすべては期待値とリスクによって記述できるはずだった。


けれど、その完璧な計算式を唯一狂わせた不確定要素——親友の「遥」が、三日前に突如として学園から消えた。


「……ありえない」


結衣は指先に残る微かな震えを隠すように呟いた。


遥の退学理由は「一身上の都合」と処理されていたが、市場に流れる情報の断片は彼女が学園の「深部」に触れてしまったことを示唆していた。


結衣は周囲の目を盗み封鎖された女子寮の遥の部屋へと侵入した。


空気の中に彼女が好んでいた紅茶の香りが微かに、死者の名残のように漂っている。


「結衣、情報は武器だけれど、毒にもなるんだよ」


かつてこの部屋で、遥は茶器を並べながら困ったような笑みを浮かべてそう言った。


世界を数字と論理の網で捉えようとする私に対し、彼女はいつも数式には現れない「心」という曖昧な機微を、壊れ物を扱うように慈しんでいた。


凍てついた学園という檻の中で彼女の眼差しだけが唯一の救いであり、確かな体温だった。


けれど今の私の指先に触れるのは、彼女の温もりではない。


そこにあるのは埃を被った無機質なプラスチックの破片。



不自然なほど清潔に片付けられた机。

その引き出しの奥に一枚の古いマイクロSDカードが残されていた。


ラベルには、不格好な文字で『ゼロ・データ』と記されている。


結衣が持参したリーダーで中身を読み取ろうとしたその時だった。

背後の自動ドアが、無機質な音を立てて開いた。


「無許可の立ち入り、および機密データの隠匿。重大な学則違反だ」


静寂を切り裂いたのは温度を欠いた声だった。

そこに立っていたのは真理究明委員会の副委員長、如月蓮。



眼鏡の奥にある瞳は獲物を観察する猛禽類のように鋭く、それでいて色彩を一切持っていない。


彼の背後には、執行官たちが影のように控えていた。


結衣は反射的に端末を隠そうとしたが、如月の手元にあるデバイスが彼女の自由を奪った。

結衣のスマートフォンに血のような真っ赤な警告画面が奔る。


「瀬戸口結衣。君の所持する『ロゴス』は現在、負債に転換された。金額は五百万」


如月は、宣告した。


「通常の手段では、卒業までに返済不可能な数値だ」


結衣の喉がひりつくような渇きに襲われる。

五百万ロゴス。


それはこの学園において人間としての権利を剥奪され、奴隷以下の存在に墜ちることを意味していた。


地下執務室へと連行された結衣は冷たい金属製の椅子に座らされた。


向かいに座る如月は、手元の端末に彼女の「取引履歴」を映し出し薄い唇を歪める。


「君の処理能力は高く評価している。だが好奇心が過ぎた。そのカード……『ゼロ・データ』は、黎明学園というシステムが生んだ致命的なバグなんだよ」


「遥はどうなったの? 彼女はその『バグ』に消されたの?」


結衣の問いに、如月は答えなかった。

代わりに、一枚の電子契約書を提示する。




如月の指先が白い手袋越しに金属のテーブルを叩いている。


硬く、不規則な音。


その冷たさはテーブルの表面から彼の指先へ、そして部屋の空気へと伝播していくようだった。


「君のログをすべて、精査させてもらったよ」


彼は淡々と言った。

感情を削ぎ落とした、平坦な声だ。


「膨大なデータ。そのどこを探しても君は一度も『嘘』を混ぜていない。それが情報を扱う者の矜持なのか、それともただの潔癖症なのか。僕には興味がないけれど」


如月がわずかに身を乗り出した。

氷の楔(くさび)のような視線が結衣の瞳の奥を容赦なく貫く。


「だが、この地獄において清廉であることは、緩やかな自殺と同義だ」


彼は薄く笑った。

その微笑みはひどく静かで、残酷だった。


「君のその卓越した『正確さ』を、これからは僕の私欲のために使ってほしい。

その綺麗な手を、僕のために汚してはくれないか」


「取引を持ちかけよう。君の五百万の負債を帳消しにする。その代わり君には我々の『観測者』になってもらう。学園で頻発している『消失事件』の調査……。遥の件も含めてな」


如月の言葉は救済などではなかった。

それは、より深い地獄へと招くための、洗練された招待状だ。


しかし結衣に拒否権は残されていない。

彼女は震える指で、自らの運命を売り渡す署名を、光るパネルに刻み込んだ。


「これで君のロゴスはプラスに戻しておいたから安心で利用するといい」


如月はそう言葉を残して退出する。


学園の沈黙を切り裂く、冷たい戦いが始まろうとしていた。




私立黎明学園、旧校舎。


かつて知の集積地であったはずのその場所は、今や蔦に絞め殺され、湿った沈黙を吐き出すだけの廃墟と化している。


軋む木造の廊下を結衣は音もなく進んだ。

「無害な図書委員」というどこにでも売っているような仮面を深く被り直す。


目的の場所は地下に眠る旧図書室の跡地だ。


如月蓮から提示された条件はおよそ正気の沙汰とは思えないものだった。


学園のカリスマ、高峰奏汰が主導する「生徒の社会的抹殺」――その証拠を掴めという。


高峰はこの学園における秩序そのものであり、神に近い観測者だ。


彼を敵に回すことは校内通貨「ロゴス」に支配されたこの閉鎖世界での死を意味する。


だが親友である遥の失踪と、背負わされた五百万ロゴスの負債が結衣を奈落の底へと突き動かしていた。




窓ガラスは、蜘蛛の巣のように細かく裂けていた。


そこから差し込む青白い月光が宙に舞う無数の塵を銀色の死骸のように照らし出している。


壁際に並ぶ古い書架は、湿気を吸って不格好に歪んでいた。


それはまるで何十年もの間誰にも読まれることのなかった静かな怨念をその隙間に押し込めているかのようだった。


足を踏み出すたびに、厚く積もった埃が微かな霧となって結衣の足首にまとわりつく。 


生者の侵入を拒む冷徹な静寂。


世界から見捨てられたこの部屋が、彼女の体温をじりじりと奪っていくのを、結衣は肌で感じていた。


「……相変わらず、カビと埃が死の匂いをさせているわね」


結衣は重厚な鉄扉の前に立ち隠しキーパッドにコードを打ち込んだ。


プシュッと、まるで肺から空気が漏れるような音がして扉が開く。


そこには学園の洗練された意匠とは対極にある無秩序な電子の墓場が広がっていた。


「ようこそ奈落の図書室へ。瀬戸口結衣」


モニターの青白い光に照らされた少年――一ノ瀬巡が気怠げに椅子を回した。


学園きっての天才ハッカー。


システムの隙間に潜り込み、死んだ情報を弄ぶ「掃除屋」だ。


「今日の君はいつにも増して死神みたいな顔をしてる」


「挨拶はいいわ、巡。如月の依頼よ。高峰の周辺を洗いたい」


「如月副委員長から? へぇ、君も酔狂だ。あの『観測者』に挑もうなんて。ロゴスにおける高峰の信用スコアはカンストしてる。彼が黒と言えば白鳥さえも漆黒に染まる。それがこの学園の唯一にして絶対のルールだよ」


巡は皮肉げに唇を歪め指先でキーボードを叩いた。


虚空にホログラムのリストが浮かび上がる。


「この数ヶ月で学園を去った生徒たちのリストだ。痴漢、窃盗、カンニング……罪状はバラバラ。だけど共通点がある」


結衣は目を細めた。

リストに並ぶ無機質な数字と名前を脳内で高速に整理していく。


彼女の特技は人間の感情と行動を「確率」と「効率」の数式に落とし込むことだった。


「……全員高峰が推進している『校内通貨統合案』に異を唱えていたメンバーね」


「正解。でもただの反対派じゃない。彼らは独自に、ロゴスの『脆弱性』に気づき始めていた形跡がある。それを高峰は証拠を捏造して組織的に排除した。情報の偽装――つまり嘘をロゴスによって『真実』へと書き換えたのさ」


巡の言葉が冷たく結衣の胸に突き刺さる。

嘘を真実に変える。

それが可能ならこの学園に存在する正義とは単なる演算結果のゴミに過ぎない。


巡がさらにいくつかのファイルを展開した。

その中に、見覚えのある文字列が踊る。


『Project Zero-Data / Target: Haruka...』


結衣の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


放課後の静かな屋上。

遥がふともらした言葉がいまさらになって耳の奥で蘇る。


「ロゴスって便利だけど怖いよね。私たちの価値がただの数字で決められちゃうみたいで」


あの時の彼女はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。


けれどその瞳の奥には今の私が直面している底知れない闇の予兆が、すでに静かに沈殿していたのかもしれない。


親友として彼女を守れなかった。

その冷え切った事実が鋭利な氷の楔となって、私の心臓の最も深い場所をゆっくりと貫いていく。



遥の名前が高峰の管理する「処理対象」のリストに、まるで不燃ゴミの分類のように記載されていた。


「遥も……同じだったの? 彼女が消されたのは、何かを知ってしまったから?」


「確定的なことは言えない。けど彼女が最後にアクセスしたログを辿ると、高峰が管理するプライベート・サーバーに繋がっている。彼女は『ゼロ・データ』――ロゴスというシステム自体が抱える致命的なバグに触れた可能性がある」


結衣は握りしめた拳が震えるのを感じた。

それは恐怖ではなく、氷のように研ぎ澄まされた怒りだった。


遥は何も悪いことをしていない。ただ真実を知ろうとしただけなのだ。


それを高峰は、自身の玉座を維持するために塵のように掃き出した。


「……巡、協力して。高峰のサーバーを叩く。彼が隠しているすべての『偽造』を引きずり出すわ」




「黎明学園において『存在が抹消される』というのは、君が想像するような退学処分とは根本的に次元が異なっている。


中央サーバー『ロゴス』から全記録がデリートされた瞬間、君と接触した生徒たちの端末からは、共有したはずの記憶の欠片がまるであらかじめ仕組まれていたエラーのように霧散していく。


学園のデータベースと同期している外の世界の推薦枠も、銀行口座も。


君という人間をこの社会に繋ぎ止めていたあらゆる『符号』が、冬の朝の霧のように跡形もなく消えてなくなるんだ。


それは肉体的な死よりもずっと静かで、救いようのない絶望だよ。


君という輪郭を証明するものが何一つない世界で、君は生きながらにして完全な『無』へと成り果てるのだから。


リスクは分かってる? 失敗すれば君も遥と同じように『存在しない人間』に書き換えられる。僕の報酬も高いよ」


「五百万ロゴスの負債がある私に、失うものなんて最初からないわ」


結衣の瞳に、冷徹なまでの決意が宿る。

如月の依頼、高峰の支配、ロゴスの真実。

絡み合う糸の先に、彼女は遥を救い出すための、唯一の勝機を見出そうとしていた。


「いいだろう。君のその絶望、僕が買い取らせてもらうよ」


巡の指がカタカタカタと、死者のダンスを踊るようにキーボードの上を走り出した。


学園の深淵で反逆の狼煙が静かに、しかし確実に上がろうとしていた。



地下図書室の空気は澱んだ水のようだった。


古びた紙の死臭と酷使されたサーバーが吐き出すオゾン。


それらが肺の奥をじりじりと焼く独特の刺激。


一ノ瀬巡の指先は意志を持った別の生き物のように跳ねていた。


青白いモニターの光に浸食された彼の横顔は、生身の人間というよりは精巧な端末の一部に見える。


「見つけたよ、結衣ちゃん。高峰奏汰の『次のプログラム』だ」


巡がいくつものウィンドウを冷徹に整理していく。


「標的は一年生の特待生、佐倉。学園の管理システム『ロゴス』を書き換え出席日数を改ざんするつもりだ。奨学金を剥奪し彼を社会的に殺すために」


背後で腕を組む瀬戸口結衣の瞳には、感情の色がなかった。


彼女にとって高峰のやり方は道徳的に許せないのではない。


ただシステム上の「ノイズ」として生理的に不快なだけだった。


「佐倉君はただの布石ね。本命はその混乱に乗じたロゴス・サーバーの権限奪取。如月さんへの挑戦状というわけか」


結衣の声は静かに、低く沈んでいる。

生徒会のモニター室では如月蓮がこの光景を眺めているはずだ。


彼が自分たちを泳がせているのは結衣が高峰という毒を中和する「抗体」になり得るかを見極めるため。


ならば、期待を上回る毒を持って、毒を制すまで。


「巡、作戦を変更するわ。佐倉君を守るんじゃない。ロゴス・システムそのものを一時的に窒息させる」


巡の手が止まり、眼鏡の奥の瞳が微かに揺れた。


「情報飽和攻撃、……やるの?」


「君が積み上げてきた『信頼』という名の資産が一瞬で電子の塵に変わる。……合理的じゃないな」


巡はキーボードから指を離し、上目遣いに彼女を捉えた。

硝子の奥にある瞳は、どこまでも冷たく、凪いでいる。


結衣は自嘲気味に鼻で短く笑った。


「合理性なんて高峰君の土俵でしかないわ。

泥仕合に持ち込むならこの学園で最も価値のない『混沌』をぶつけるのが一番よ。

……それとも、怖気づいた?」


巡は無言のまま眼鏡のブリッジを押し上げ、再び鍵盤を叩くように指を踊らせた。

静寂の中に硬質なタイピング音だけが白く響く。


「まさか。君との無理心中(心中)に付き合うとは、僕の計算には含まれていなかった。

……でもたまには予測できない変数に身を投じるのも案外、悪くない」




「ええ。数万単位の『偽造された事実』を流し込む。真偽判定アルゴリズムが熱暴走を起こすまで。その隙に高峰が隠蔽している全ログを全校生徒の端末に強制プッシュする」


それは結衣が積み上げてきた全ロゴスポイントと図書委員としての地位、そして学園での全信頼を焼却炉に放り込む行為だった。


失敗すれば彼女自身が「虚偽情報の発信源」として追放される。


昼休み。

学園の中央広場に設置された巨大なホログラム・モニターが突如として痙攣するように歪んだ。


食事をしていた生徒たちが顔を上げる。

モニターには、株価チャートのように乱高下する「情報の信頼度指数」が映し出され、その横で『緊急:真理究明委員会による特別監査』という偽のヘッダーが踊った。


次の瞬間生徒たちの端末が一斉に震えだす。


一人一人のもとに誰かの醜い秘密や捏造されたスキャンダルが、秒間百通を超える速度で送りつけられた。


「なんだこれ!? 俺の退学届が受理されてることになってる!」


「ロゴスの残高が勝手に減ってるぞ、おい!」


学園全体が目に見えない濁流に飲み込まれていく。


情報の真偽を取引する神聖なシステムは判定不能(PENDING)の赤い文字で埋め尽くされ断末魔を上げた。


システムが麻痺し平時の価値観が崩壊したその瞬間。


結衣は地下で静かに合図を送った。


「今よ。一番奥の黒い記録を解き放って」


モニターが真っ暗になり、一転して鮮烈な白文字が浮かび上がる。


『高峰奏汰による、過去三ヶ月の「処理対象者」リスト。及び、証拠捏造の全記録』


そこには、失踪した親友、遥の名前もあった。


「ロゴスが、私を嘘つきに変えていくの」


震える声でそう零した遥の横顔を、結衣は今も忘れることができない。


学園の象徴だった彼女が一夜にして身に覚えのない泥に塗れ、追放されたあの日。


結衣はその圧倒的な無力さを呪い、真実を掘り返すためにこの暗い情報の深淵へと足を踏み入れた。


液晶画面には精巧に捏造された犯罪履歴が冷たく並んでいる。


それを見つめる結衣の瞳の奥で、静かな凍てつくような怒りの炎が揺れていた。



万引きの捏造、存在しない誹謗中傷のログ。それらをロゴスで買い取らせ、ターゲットを孤立させる冷酷な手法。


すべてが無機質な文字列となって白日の下にさらされた。


生徒会の特別室。

如月蓮は冷めた紅茶のカップを置いた。


モニターの中では、ロゴスの価値が暴落しシステムが再起動を繰り返している。


阿鼻叫喚の広場を映すカメラの隅に図書室へ戻ろうとする結衣の背中が見えた。


「全ロゴスを自身の社会価値を賭けて学園のルールを破壊するか。瀬戸口結衣、君は計算高い策士だと思っていたが……想像以上に狂っている」


如月は、満足そうに唇を歪めた。


一方で学園の時計塔にいた高峰奏汰は、自身の端末に表示された「管理者権限喪失」の文字をただ無機質な瞳で見つめていた。


彼の完璧な「観測」は初めて予測不能な変数によって、無惨に引き裂かれた。


情報の濁流が去った後の学園にはかつてない静寂と、深い疑心暗鬼が残されていた。


結衣の手元に残ったのは、残高ゼロのアカウントと、遥の失踪に関わる「本物の」手がかりの一部だけ。


彼女は唇を強く噛み締め、静かに地下への階段を降りていった。




黎明学園を包んでいた虚飾が、音もなく剥がれ落ちていく。


図書室の地下。

サーバーラックが吐き出す熱気と、冷却ファンが刻む不規則な唸り。


一ノ瀬巡の指先が叩くキーボードの音だけが、耳障りなほど鮮明に響いていた。


「……見つけたよ瀬戸口さん。これが『ゼロ・データ』の正体だ」


一ノ瀬が画面を指し示す。


そこには、学園の基幹システムを定義する膨大な機密ファイルが展開されていた。


『黎明プロジェクト:真の支配者選別プロトコル』


発行元には、文部科学省の下部組織と、国内最大手の軍事企業の名前が冷淡に並んでいる。


「選別……実験なの?」


結衣は掠れた声で呟いた。

画面をスクロールするたびに、戦慄するような真実が浮き彫りになる。


学園は、次世代の「絶対的指導者」を選別するための巨大な実験場だった。


学生たちが依存していた『ロゴス・システム』は極限状態における心理操作や裏切り、情報の武器化をデータ化するための観測装置に過ぎない。


如月蓮の冷徹な正義も。

高峰奏汰の卑劣な捏造も。

すべては「どのタイプの人間が、最も効率的に集団を統治できるか」を測るためのパラメータだった。




結衣の脳裏に最後に見た遥の姿が鮮明に焼き付いている。


昼休みの中庭。

「ロゴス」の取引に血眼になる教室の喧騒をよそに、彼女はただ足元に咲く一輪の花を眺めていた。


「ねえ、結衣。この花は誰の評価も気にせずに咲いているから、こんなに綺麗なんだよ」


その静かな無垢さは、この冷酷なシステムにおいて「計算不能な不純物」として処理される。


数値化できない想いは、実験を乱すノイズに過ぎない。


そのあまりに簡潔な真理が、結衣の胸の底に、どろりとした黒い感情を澱ませていく。


「見て、瀬戸口さん。遥ちゃんの記録があった」


一ノ瀬の指が止まる。

遥はシステムの「不適合者(イレギュラー)」として分類されていた。


彼女は情報の真偽ではなく、純粋な「信頼」で他者と繋がろうとした。


その予測不能な行動が実験のノイズと見なされ、システムからパージ――排除されたのだ。


失踪ではない。

学園という巨大な意志が、彼女を「処理」した。


「僕たちも、如月も、高峰も……みんな、この箱庭の中のモルモットだったってわけだ」


一ノ瀬が自嘲気味に笑う。

その時、背後の自動ドアが開いた。


現れたのは、如月蓮だった。

その顔にいつもの余裕はなく、蒼白な肌が端末の光に青白く照らされている。


「……すべてを知ったようだな、瀬戸口結衣」


「君がここまで辿り着く確率は、わずか三・二パーセントだった」


如月は感情の削げ落ちた声で言った。

システムの弾き出した冷徹な数字。


けれど、そのわずかな誤差が現実になった瞬間僕たちが縋ってきた秩序はただの茶番に成り下がった。


彼は自嘲を湛え首元の学園章に指をかける。

かつて正義の象徴だと信じ込んでいたそれは、今や上位組織に繋がれた飼い犬の首輪にしか見えなかった。


彼の瞳を覗き込んでも、かつての誇りはどこにも見当たらない。


ただ行き場をなくした深い虚無が、泥のように静かに沈殿しているだけだった。




如月は静かに歩み寄り、モニターを見つめた。

彼はこの真実を知っていたのか。あるいは、今この瞬間に裏切られたことを理解したのか。

その瞳には、深い虚無が宿っていた。


「この学園はもう終わりだ。実験は失敗として破棄される。政府は証拠を隠滅するために、数日以内に学園を閉鎖するだろう」


如月は淡々とした口調で、絶望を突きつける。


「君に選択肢をあげよう。このデータを外部に暴露しこの歪な実験を白日の下に晒すか。それとも私が持つ『破棄権限』を共有し、この泥舟から静かに消えるか」


合理的で、隙のない提案。

しかし、結衣は動かない。

彼女の視線は、モニターの隅で点滅する「管理権限の空白」という文字列に釘付けになっていた。


「暴露……? そんなことしても遥は戻ってこない」


結衣の唇が、ゆっくりと吊り上がる。

感情を数値化して捉えてきた彼女の中で、何かが臨界点を超えていた。


悲しみでも、怒りでもない。

それは、システムそのものに対する、底知れぬ「軽蔑」だった。


「如月さん、あなたはまだ分かっていない。このシステムを壊す必要も逃げ出す必要もないの」


結衣はモニターを見つめたまま、静かに告げる。


「この実験データ、そして『ロゴス』という概念……そのすべてを私が書き換える」


「……何を言っている?」


結衣は、迷うことなく一ノ瀬に指示を出す。

彼女が選んだのは学園の崩壊でも、システムの掌握でもなかった。


それは「第三の道」。


学園を存続させたまま外部の観測者たちに「偽の成功」を送り続け、内側から完全に独立した「独裁情報国家」へと変貌させること。


「政府には実験は成功したと見せかける。でも、その中身は私たちが書き換えるの。真実が価値を持つ世界ではなく、私が『価値がある』と決めたものが真実になる世界」


キーを叩く音が静かな地下室に弾ける。


「そこに遥を呼び戻す場所を作るの」


結衣は端末を操作し、ゼロ・データを基幹プログラムへと上書きしていく。


ロゴスの価値は大暴落し、既存のシステムは死を迎えた。


同時にそれは、結衣による新たな支配の始まりでもあった。


端末の青白い光が結衣の冷徹な笑みを、怪物のように強調する。


如月は絶句し、その圧倒的な意志の前に立ち尽くすしかなかった。


「ようこそ、新しい黎明学園へ」


結衣の指が最後のキーを叩いた。


学園内の全端末にこれまでとは異なる、禍々しい黄金色のロゴが表示される。


それは、絶対的な統治者としての彼女が下す、最初の宣告。


崩壊した瓦礫の上に、彼女は新たな秩序という名の怪物を産み落としたのだ。

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