第2話 心地良さ
翌朝、校舎に差し込む光は少し冷たかった。春の空気はやわらかいのに、どこか輪郭が残っているような温度。月城玲──高校から外部入学してきた彼にとっては、まだ慣れない世界の匂いがした。
昇降口の人の流れを抜けて教室へ向かう途中、背後から少し弾む声がした。
「……月城くん、おはよう」
振り返ると、藍原凛がいた。昨日、旧音楽室で偶然出会った少女。肩にかかった髪を指でゆらしながら、小さく笑っている。その笑顔は、昨日の静けさの中で見た横顔とどこか似ていて、少しだけ幼く見えた。
「ああ……おはよう」
玲は短く返す。視線の置きどころが分からず、ほんの一拍だけ間が空く。
凛は言葉を続けるでもなく、ただそのまま並んで歩き出した。玲にとっては珍しい。人と並んで歩くのが自然に感じるなんて。
「昨日、ありがとね。あの……一緒に話してくれたこと」
「別に、何もしてないよ。俺はただ居ただけだから」
「ううん。いてくれただけで、助かったの」
ふわりと笑う凛。その表情が自然で、玲は少しだけ目をそらした。
教室が近づくと、凛は軽く手を挙げて自分のクラスへと入っていった。教室の扉が閉まる直前、振り返ってもう一度笑う。
玲の胸に、ほんの微かな余韻が残った。
***
自分の席に座ると、クラスの空気が一斉に賑やかさを増す。中高一貫校らしく、ほとんどの生徒は中学から持ち上がりで、玲のような外部生は少数派だ。
窓際の席に腰を下ろした瞬間、前の席の男子が振り返った。
「月城くん、おはよ。昨日は帰り遅かったの?」
「まあ、ちょっと」
玲が曖昧に返すと、男子はそれ以上は踏み込んでこない。気遣いというより、適度な距離感というのが正しいのだろう。
ホームルームが始まり、担任が淡々と連絡事項を読み上げる。その声を聞きながらも、玲は心のどこかで、さっきの凛の笑顔を思い返していた。
──助かった、か。
そんなふうに言われたのは、久しぶりな気がした。
***
昼休み。
食堂からのざわめきが廊下まで届く頃、玲は購買でパンを買い、教室の端の席へ戻った。外部生であるがゆえに、誰かと食べる習慣はまだできていない。
パンの袋を開けたところで、視界の端に見たことのある顔が入る。
藍原凛だった。
彼女は自分の席で弁当を広げようとするものの、ふとスマホを見て眉を寄せる。画面には母親とのメッセージらしき通知が並んでいるのが見えた。既読はついていないようだ。
凛は机に頬をつけて、ぼそりとつぶやいた。
「……今日も既読つかないじゃん」
玲は聞こえないふりをした。いや、正確には、どう反応していいか分からなかった。
凛の友人たちがやってきて、彼女の周りはすぐに明るい空気に包まれる。けれど、どことなく凛の視線は曇ったままだった。
玲はパンをかじりながら、その横顔をちらりと見た。
──昨日の笑顔とは少し違うな。
そんなことを思った。
***
午後の授業が終わった頃には、窓の外の空色が少し柔らかく変わっていた。放課後のチャイムが鳴ると、教室の空気は一気に軽くなる。
玲は荷物をまとめながら、校内でちらつく話題を聞きながらどうしようかと考える。
今日も夕方、母の知り合い──音楽関係の人間が自宅に来るらしい。
自然と、昨日と同じ場所が頭に浮かんだ。
旧校舎の、あの静かな音楽室。
気づけば鞄を肩にかけ、玲はそちらへ向かっていた。
***
一方その頃、凛もまた、人の多い帰り支度の中でひっそりと息をついていた。
友人たちからの「一緒に帰ろう」という誘いをやんわり断り、校舎の出口とは逆方向へと歩く。
──昨日のあの場所、もう一度行ってみようかな。
自分でも理由ははっきりしない。ただ、あの薄暗く静かな空間で過ごした時間が、どこか心地よかった。
そして何より──
そこにいた、あの男の子が気になっていた。
旧校舎の階段を上り、使われていないはずの音楽室の前に立つ。
ドアノブに触れ、そっと押すと──
薄暗い部屋の中、窓の光の前に人影があった。
月城玲だった。
「……また、来てたんだ」
凛は思わず笑ってしまった。
玲は小さく息をつき、肩をすくめた。
「こっちの台詞だよ」
再び、二人だけの放課後が始まった。
旧音楽室は、やはり薄暗かった。
カーテンが半分閉じたままなので、窓際の光だけが床に淡く落ちている。その静けさは、まるで時間が止まった空間のようだった。
凛は近くの椅子に腰を下ろし、足元に置いた鞄を引き寄せる。
「月城くんはなんでここに来るの?」
「……まあ。落ち着くから」
「分かるよ、ここ。なんか、人の声がしないのがいい」
玲は「ふーん」とだけ返し、ピアノの前に座ったまま天井をぼんやり見上げている。
弾く気はないらしい。鍵盤に触れる気配もない。
凛は椅子の背にもたれ、制服の胸元を軽く整えた。
「ねえ……昨日の楽譜、持ってきてる?」
玲は少しだけ目を丸くし、カバンの中を探る。昨日と同じ、小さく折れた楽譜の束が出てきた。
「そんなに面白みのあるものじゃないよ」
「あるよ。だって、月城くん、ピアノ弾けるんでしょ?」
「……まあ、弾けるだけ」
「弾けるだけ、って言わないよ普通。絶対うまいでしょ。こんなに紙がよれてるもん」
凛は笑って覗き込もうとするが、玲は自然に視線を逸らした。
その仕草がほんの少しだけ、子どものように見えて凛は小さく吹き出した。
「なに笑ってるの」
「だって、昨日と違うんだもん。月城くん」
「……何が」
「昨日はもっと、壁があった」
玲は返事に迷ったように黙り込んだ。
凛は机に肘をつき、揺れる青いインナーカラーを耳にかける。
「今日、ちょっと話してみたらね。月城くんって、優しいのかなって」
「優しくないよ」
「優しいよ。昨日も今日も、変な気遣いしないで普通に話してくれた。……それだけで、十分優しい」
柔らかい声だった。
玲は言葉を返すかわりに、軽く息をつくように視線を下げた。
***
しばらくして、凛がスマホを見て少し眉を寄せた。
「……あ、まただ。既読ついてない」
昨日と同じように、呟きは無意識に零れたもののようだった。
ふだんなら誰にも聞かれたくない種類の弱さだろう。
玲は少し迷い……だが、思い切って聞いた。
「昨日も言ってたよな。……誰かから返事来てないの?」
凛は一瞬驚き、そして「ああ、うん」と小さくうなずく。
「お母さん。仕事忙しいから、メッセージ見ないこと多いの。……まあ、いつものことなんだけどね」
そう言いつつも、強がるような笑顔だった。
「別に、嫌とかじゃないんだけど……。でも、帰ったら誰もいないの、なんか疲れるじゃん?」
玲は少し胸の奥がざわつく感覚を覚えた。
凛が普段どんなふうに笑って、どんなふうに周囲に囲まれているか──外側だけを見て勝手に「こういう子だ」と思っていた自分が、浅かったような気がした。
「……それで、ここに来たのか」
「うん。友達と一緒でもよかったんだけど……なんか、今日はちょっと疲れてて」
凛は顔を上げて、玲を見る。
「月城くんは? 家に帰りたくない理由あるんでしょ?」
玲は返事を詰まらせたが、昨日の自分を思い返すと嘘はつけなかった。
「……親の知り合いが来てて。ピアノの話されるの、なんか嫌なんだよ」
「……そっか」
凛は意外そうに瞬きをしたが、すぐ「分かる気がする」と笑った。
「親に何か期待されるのって、重いよね」
「……まあ、そんな感じ」
玲の胸の奥に、小さな共感の灯がともる。
凛は「完璧でいること」を求められているようで。
玲は「才能」と言われるものを押し付けられているようで。
どちらも、誰にも見せない苦しさだった。
そしてそれを、初めて誰かに“見られた”のだ。
***
「……ねえ、月城くん」
凛が立ち上がり、ゆっくりピアノの側に歩く。
そして鍵盤の前で、そっと振り返る。
「ちょっとだけでいいから、弾いてみてほしい」
「……無理」
玲は即答した。凛は困ったように笑う。
「なんで?」
「別に……聴かせるようなもんじゃないし」
「聴きたいよ。昨日から、ずっと気になってたの」
言葉が優しすぎて、玲は目をそらす。
凛はさらに近づき、横にすっと座った。
距離が近い。座れば分かる、数十センチという近さ。
玲の心臓が嫌なほどうるさい。
「嫌なら無理にとは言わないよ。でも……もし少しでも弾きたい気持ちがあるなら、聴かせてほしいな」
玲は、静かに息を吐いた。
そして諦めたように、膝の上で拳を握り、鍵盤の上に指をそっと置いた。
押したのは、ほんの数音。
簡単なコード。
けれどその瞬間、凛は息を呑んだ。
「……きれい」
「こんなの、適当だよ」
「適当じゃない。すごいよ」
凛の声は、本当に嬉しそうだった。
玲は困ったように口元をゆがめ、だがもう一度だけ鍵盤に触れる。今度は少しだけ流れるように。
凛はその音に耳を傾け、静かに笑った。
その笑顔を見た瞬間、玲の胸の奥で、何かが少しほどける感覚があった。
逃げ場だったはずの旧音楽室が──
気づけば、“誰かといる場所”へ変わりはじめていた。
***
しばらくして音が途切れると、凛は名残惜しそうに手を叩いた。
「ありがとう。すっごくよかった」
「……別に」
「また聴かせてね?」
そう言って凛はピアノから離れ、鞄を持つ。
「今日はそろそろ帰ろうかな」
扉の前で振り返り、凛が言う。
「じゃあ、また明日ね。月城くん」
玲は言葉を返さなかった。
けれど、凛が去ったあとも、彼の耳には自分が弾いた音と、凛の笑顔だけが静かに残っていた。
旧音楽室の空気は、昨日よりもあたたかかった。
クラスの美少女と放課後の音楽室で~ゆっくり進む2人の関係 ルキノア @rukinoa
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