忘れていなかったレシピ
植田伊織
忘れていなかったレシピ
「……ヘイスティング導師……これは……僕にアカデミーを辞めろと仰りたいのですか」
ぐしゃり、と、辞令が書かれた書類を握りつぶしながら、エミール・ローレンは、震える声で言った。
「違う。今回の人事に、なんの政治的意図もない」
「なら、何故、“ダイヤモンド症候群事件”の面々が集められるというのです!」
導師は、普段は温厚な眼をかっと見開き、ローレンを見据えた。
「自惚れるな、エミール・ローレン。各々が試練を乗り越え、優秀な治癒士として成長したからこその人事。
お主が受けられぬというのなら、それはそれでかまわぬ。しかし、お主以外の全員、この人事、快諾した事だけは知っておけ」
アメジスト色の伏し目がちな瞳が、かつての師を仰ぎ、不安そうに揺れた。
「……エメもですか?」
「勿論だ」
*
エメとの再会は、そうやって、突然決まった。
10歳の頃、非凡な才能を開花させ、当時20歳だった僕の実力をたった数年で追い抜いた天才少女。
僕は、喉から手が出るほど彼女の才能が欲しかった。
精神構造学の基礎を、自分の講義の練習がてら、多少手ほどきしたとはいえ、ほぼ独学で知識を学び、応用し――ちょっと本を読んだだけで、僕の数年分の苦労を軽々抜いた彼女が憎くて――激しい嫉妬心を抱いたのだ。
またエメは、不幸な境遇で育ったせいか、僕を親のように慕った。
もしくは、僕が彼女の才能を見抜き、適切な学習環境を整えてくれた人と、神聖化しているようでもあった。
だからこそ、自分の成果をそのまま僕に譲ろうとしたのだ。
少女の斬新な考えを僕の物として発表し、もっと世界へ羽ばたくべきだと、エメは言った。
確かにエメの理論を新薬に転用すれば、当時の流行病であった『ダイヤモンド症候群』の治療は劇的に進む。それは火を見るより明らかだった。
だからこそ。自分より優れた者が、自らを踏み台として差し出した事実に。
僕は、侮辱された気持ちと、嫉妬心と、何故、彼女の様な才能と人間性が自分に無いのかという、憎悪に似た自責感情。
そして、彼女への羨望で身も心もバラバラになりそうだった。
このままでは彼女の人生を潰してしまう。
そう考え、幼子の提案を蹴り、10歳のエメを『ダイヤモンド症候群』の治療法確立者として、アカデミーのネットワークに正式登録した。
当時、教授会議長だった僕のかつての師である、クラウス・ヘイスティングス導師に全てを話し、エメを『王立アカデミー』へ入学させ、生活の保障を国で持つよう手続きをした。
それほどまでの逸材だったのだ。
一方の僕は、無理矢理、王都から異動し郊外のアカデミーへ転属、果ては海外留学までして、石榴色の目をした天才を必死で忘れようとしたのに。
まさか、あのハーキマー教会で、『チームローレン』とかいうふざけた名前のもと、全員が再開するとは思わなかった。
*
その日は、天に唾を吐きたくなる位の快晴だった。
鳥のさえずりも木の葉の囁きも、全てが神経を逆なでする。
数日前にあてがわれた、ハーキマーの研究室兼自宅を掃除し、荷物をおさめ、挨拶にくるというエメを待っていた。
この屋敷は、6年前に『ダイヤモンド症候群事件』時にも、僕とエメが住んでいた場所だ。
――勿論、『チームローレン』で働く際、エメと同居するかどうかは決めてない。
僕が平静でいられるかもわからないし――いや、男女の話ではなく、1日中、師匠らしくあると言うのはしんどいという意味で――、エメだってもう16歳だ。
恋人がいたっておかしくない。
むしろ、かつて自分に嫉妬した上、養育と指導を拒否した一回りも年上の男と、一つ屋根の下で生活を共にするなど、恐ろしくて考えられないと言う方が普通だろう。
アカデミーのニュースに華々しく取り上げられた、才媛らしい落ち着いた振る舞いをする、エメ・デマレの姿を思い出す。
かつて、膝の上に乗って読書をせがんだ幼いエメに、教育者としての喜びを知った若かりし頃の僕。
あの頃の信頼関係は、2度と築けない。
世間は、僕がエメを置いてキャリアに逃げたと言うけれど、結果は違う。
エメだけが華々しく活躍し、新天地を開拓し、僕はいつまでも過去の幻影から逃げられないでいる。
少なくとも、僕はそう感じていた。
部屋の至る所で、ルビー色をしたボブヘアの少女が、僕を見て、蕾が綻ぶような笑みを見せ、駆け寄ってくる姿を思いだした。
胸が苦しくて仕方がなかった。
あの純粋な笑顔を、好意を、僕は――。
「ローレン、もうすぐエメが到着するけど……大丈夫?」
立ち合いとして来てくれた、元婚約者のアンナが、心配そうにこちらの様子を伺っている。
大丈夫なわけがない。僕は、身勝手な理由で弟子から一方的に立ち去った、卑怯者だ。
自分の弱さに決着をつけられなかった――その性分は、6年の歳月ではとても、改善出来るものではない。
物心ついてから親元を離れるまでの歳月に、
‟人より優れていなければ、生きている価値はない”と、恐怖と厳しい懲罰により刷り込まされてきた、かつての少年だった僕が、心の中で悲鳴をあげている。
<エメみたいに天才だったら、僕は母さんから愛されたのに!
エメみたいに可愛くて、何でもできる賢い子だったら僕は、こんな怖くて痛い思いをしなくて済んだのに。
なんで僕はエメじゃないの? どうしてエメになれないの?
どうしてエメは笑っていられるの?
僕は今にも、恐怖で押しつぶされそうなのに!!> ――と。
「すまない、無理だ」
小刻みに震える手を口にあてて、吐き気を堪えた。
もし、僕が再び、彼女に嫉妬してしまったら?
成長し、あのころとは比べ物にならない程、眩い、ルビーのような輝きを纏う少女を前にして、僕は、自分を見失わずにいられるだろうか。
彼女を大切に思えばこそ、自らがコントロール出来ない悪魔の己を、露呈させないために、距離を取る。
皆何故、こんな簡単な理屈を理解してくれないのだろう?
6年前、別れを告げた直後、世界が崩壊したかのように泣き、必死で縋りついてきた幼子が、瞼の裏に蘇る。
あれ以上の痛みを与えたくないという望みは、何故棄却されてしまうのか?
「ローレン、駄目よ。ここまできて逃げては、エメは本当に立ち直れなくなってしまう」
アンナはそう言った後、凛とした黄金色の瞳を悲し気に伏せて、二呼吸。
再び僕を正面から見つめた瞳は、元の、厳しさと知性を讃える、涼やかな黄金色だった。
「ローレン、私は、あなたの痛みはわかってあげられない。でも、普段は責任感の強いあなたが、これほどまでに、エメと向き合うことから逃げてしまう……その異様さはわかるの。
私だって、名誉教授とはいえ治癒士ですもの。
……あなたにも、なにか、事情があるのよね?」
胸の中が、万年筆のインクでもベッタリとへばりついたように、真っ黒になった。
気道が狭まり、少しずつ、息苦しくなってゆく。
僕は首元のボタンをいくつか開けて、ゆっくりと息を吐いて凌いだ。
「……ホットミルクを……作ってくるから。その間だけ、時間が欲しい」
そう言い捨て、返事を待たずにキッチンへ退避する。
心を黒く染めたインクが、臆病者と叫んでいた。
空気の薄くなった世界で、己を見失わないように、なんども呼吸を整えながら、ミルクパンを取り出す。
買ったばかりの食材をみっちり詰めた冷蔵庫から、牛乳を取り出して、ミルクパンに注いだ。
コンロの炎を蛍火に調節し、砂糖を2種類とマグカップ2つを用意して、再度、肺を洗った。
「ご、ご無沙汰しております! エメ・デマレです!」
遠くで聞こえる軽やかな少女の声。
記憶の底に沈めた、幼い彼女の声は、二度と聞けない。
――刹那、感情を遮断しようとして――歯を食いしばって、耐えた。
もしまた、エメを壊してしまったら、僕は一生自分を赦さない。
それには――まだ、僕が地獄にしてしまったこの世界に、留まったままでいなくては。
ミルクパンから温めた牛乳をカップにそそぐ。
軽やかな足音が近づいてくる事実を、なんとか、直視しないようにして。
「お師匠様、ご無沙汰しておりま……」
エメ専用の、リボンのついたチェック柄のマグカップ。
捨てよう捨てようと思いながらも、捨てられずに、持っていた。
彼女と過ごした時間は、僕にとって特別だったから。
人間が苦手な僕が、はじめて、人に教えるという行為に自信をもてた、はじまりの思い出だから。
彼女に近づけば近づくほど、己が闇が濃くなってゆく。
この漆黒で彼女の陽光を陰らせまいと、背を向けた。
いくら、これ以上自分の愚行で弟子を傷つけないようにと、ラッピング用紙で包んだとしても、包をひらけばただ、恐怖と言う名の飴玉が転がり出てくる。
――僕はそれを、認めたくなかっただけだ。
カップに、上白糖を大さじ1杯。そしてザラメを大さじ1杯。
すっかり忘れていたと思っていた、エメ専用の、ホットミルクのレシピ。
今の彼女には甘すぎるかも知れない。
「お師匠様……」
全てを見ていた元弟子は、僕の涙に気づいただろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます