第2話:冬の気配を持つ彼に、朱色は毒です

チャンスは、予想よりも早く巡ってきた。 翌日の朝、私はレオンハルト様の私室の掃除係を命じられたのだ。


普段なら古株のメイドが担当する聖域だが、昨日の「魔力酔い」騒ぎで、ベテラン勢は看病や準備に追われているらしい。「新入りのアカリでも、床を拭くくらいならできるでしょう」と、雑巾を渡されたのだ。


「失礼いたします……」


恐る恐る重厚な扉を開けると、そこは戦場のような有様だった。


「若様、どうかご無理をなさらず!」

「しかし、本日は騎士団の視察がございます。正装をなさらないと……」


部屋の中央で、レオンハルト様が椅子に沈み込んでいる。 その顔色は昨日よりもさらに悪い。透き通るような白い肌は灰色に淀み、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。呼吸も浅く、見ているだけで息苦しくなるほどだ。


それなのに、彼の周囲を取り囲む侍従たちは、あろうことか「あの服」を手に持っていた。


昨日、私が心の中で罵倒した、燃えるような朱色の礼服だ。 しかも今日は視察用ということで、さらに装飾が増え、暑苦しさが倍増している。


「くっ……、ああ……」


レオンハルト様が、拒絶するように手で顔を覆う。 だが、執事長らしき年配の男性が、困り果てた顔で諭すように言った。


「若様、お気持ちは分かりますが、アークライト家は代々『火の公爵家』。この赤を身に纏うことこそが、最強の証なのです。さあ、袖を」


違う。そうじゃない。 私は部屋の隅で雑巾を握りしめながら、心の中で絶叫した。 その赤は、彼にとって最強の証なんかじゃない。彼を殺す猛毒だ。


彼が持つ色素傾向――いわゆる「パーソナルカラー」は、青みをベースとした寒色系が得意なタイプだ。その中でも彼は、コントラストの強い色が似合う「冬タイプ」。 雪景色の中に咲く椿のような、鮮烈で冷ややかな美しさを持っている。


そんな彼に、暖かみのある黄みがかった朱色を着せるなんて。 それはまるで、真夏の太陽の下に氷の彫刻を放置するようなものだ。彼の鋭く研ぎ澄まされた美貌も、魔力も、全てがドロドロに溶かされてしまっている。


「……う、ぐぅッ!」


無理やり上着を着せられそうになった瞬間、レオンハルト様の体からバチバチという不穏な音が響いた。 制御を失った魔力が、火花となって周囲に散る。


「ひっ!」

「若様の魔力が暴走しかけている!」


侍従たちが悲鳴を上げて飛び退く。 部屋の中の空気が、焼けるように熱くなる。 誰も彼に近づけない。苦しむ彼を、ただ遠巻きに見ていることしかできない。


(もう、見てられない!)


私は走り出していた。 考えるよりも先に、体が動いていた。


「どいてください!」


侍従たちの間をすり抜け、私は部屋の隅にあった衣装箱へスライディングする。 そこには、過去に「色が薄すぎて火の属性に相応しくない」と弾かれた、古びた布地が山積みにされていた。


私はその中から、一枚の布をひっつかんだ。 それは、銀糸が織り込まれた、極めて淡い青色のストールだった。 水色というよりは、氷の色。冷たく、澄み切ったアイシー・ブルー。


「無礼者! 何をする気だ!」


執事長の怒声を無視して、私はレオンハルト様の元へ駆け寄る。 彼は苦痛に歪んだ瞳で、ぼんやりと私を見上げた。その瞳のアメジスト色は、今は濁って光を失っている。


「失礼いたします、若様!」


私は躊躇なく、その忌々しい朱色の礼服の上から、持ってきた氷色のストールをバサリと被せた。 そして、彼の顔周りを覆うように、その布をふわりと巻きつける。


その瞬間だった。


ヒュオオオオオオッ――!


部屋の中に、清涼な風が吹き抜けた。 窓が開いているわけでもないのに、爽やかな冷気が渦を巻く。


「な……っ!?」


全員が息を呑んだ。 レオンハルト様の苦しげな呼吸が、ぴたりと止まる。 いや、止まったのではない。深く、静かな呼吸へと変わったのだ。


さっきまでドス黒く淀んでいた彼の顔色が、みるみると白く透き通っていく。 目の下のクマが消え、頬には健康的な血色が戻り、唇は瑞々しい桜色を取り戻す。 まるで、魔法で加工フィルターをかけたかのような劇的な変化。


そして、何よりも変わったのは、魔力の「質」だ。


先ほどまで暴れまわり、周囲を焦がしていた荒々しい熱気が、嘘のように静まった。 代わりに、彼の全身から立ち上るのは、静謐で、それでいて底知れないほど強大な圧力を持った銀色のオーラ。


「……軽い」


レオンハルト様が、自分の手を見つめて呟いた。 その声は、昨日のような重苦しいものではなく、鈴を転がしたように澄んでいる。


「体が、羽根が生えたように軽い。魔力が、指先まで何の抵抗もなく流れていく」


彼はゆっくりと立ち上がった。 首元には、私が巻きつけた安物のストール。その淡い氷色が、彼の黒髪と白い肌に驚くほど調和し、高貴な輝きを引き立てている。 もはや、下に着ている朱色の服など目に入らないほど、顔周りの印象が鮮烈に変わっていた。


「お前……何をした?」


レオンハルト様が、私を見下ろす。 その紫の瞳は、今は宝石のように鋭く煌めき、私を射抜いていた。 怒っているのだろうか。一介のメイドが、公爵家の主に安物の布を巻きつけたのだ。処刑されても文句は言えない。


けれど、私は美容学生としての矜持を込めて、まっすぐに彼を見返した。


「色を変えただけです」

「色?」

「はい。若様は、冬の夜のような冷たく澄んだ気配をお持ちです。それなのに、あのような焚き火のような色を身につけていては、ご自身の魔力が窒息してしまいます」


私は、自分の胸元で祈るように手を組んだ。


「朱色は、貴方様には毒です。貴方様を輝かせるのは、氷のような冷たい色。……ほら、今のほうがずっと、呼吸が楽でしょう?」


レオンハルト様は、首元のストールに触れた。 そして、信じられないものを見るような目で、再び自分の掌に魔力を集める。 そこには、今まで見たこともないほど純度の高い、青白い炎が揺らめいていた。


「……信じられん」


彼は呆然と呟き、それからゆっくりと視線を私に戻した。 その瞳の奥に、強い興味と、狩人のような光が宿るのを、私は見逃さなかった。


「名前は?」

「ア、アカリと申します」

「アカリか。……覚えておく」


彼は僅かに口角を上げた。 その笑顔の破壊力たるや。 布一枚でこれほど変わるなんて、やっぱり「似合わせ」の力は偉大だ。 そう感動している私の後ろで、執事長たちが腰を抜かしている音が聞こえたが、私は聞こえないふりをした。

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