見えない役割

神夜紗希

見えない役割

神様は、世界と人を創った存在。

天使は、天の使い。

悪魔は、人を悪へと誘うもの。

閻魔様は、地獄で裁きを下す者。

死神は、死期を読み、人を連れていく存在。


目に見えない世界にも、それぞれの役割があり、それぞれの存在理由がある。


オカルト好きの私は、昔からそんなことを考えるのが好きだった。


では――

病院にいる“あいつ”は、いったい何なのだろう。


今も、そこにいる。



私は看護師として働いている。


生と死が隣り合わせに存在する場所で、私は毎日、人と向き合っている。


昨日まで苦しんでいた人が笑顔を取り戻すこともあれば、

もう大丈夫だと思われていた人が急変することもある。


嬉しい別れも、悲しい別れも、

思いがけない再会もある。


そんな移り変わる光景の中を、

私は病棟を走り回っていた。


最初にあいつの存在に気が付いたのは、夜勤の最中の事だった。


ある病室からナースコールが入った。

隣のベッドの患者が苦しんでいる、と。


私たちは急いでその病室に駆け込んだ。


病室の入り口近くの患者さんだった。

術後の経過は良く、悪化する事はまずないはずだった。


白目を剥き、口から白い泡が出て、手が痙攣しているかのように、弱々しくベッドを叩く。


ナースコールを押してくれた患者は、青ざめた顔で震えていた。


私は泡で窒息しないように横向きの体勢に変えると、背中を摩りながら何度も患者の名前を呼んだ。


もう1人の看護師も点滴の状態を確認しながら声を掛けている。


夜勤番の医者が来るまで頑張って欲しい…

そう強く願った時、患者の背中から、

スゥッと黒いモヤみたいなものが出た。


指先にそれが少し当たった時、ヒヤッとした。


私は思わず背中を摩っていた手を離した。

もう1人の看護師が私の動きを不審に思いながらも、ある事に気付いて明るい声を出した。


「あ!!○○さん!気が付いた?大丈夫?

念の為先生に診てもらうけど安心したよ〜。」


その言葉に、一瞬キョトンとした患者は、

先程までの状態がまるでなかったかのように、呆れながら言った。


「…何の事?昨日もう大丈夫って言ってたじゃないの。夜中に何騒いでるの?」


看護師2人と、隣のベッドの患者は

ポカンとするしか無かった。


ちょうどその時医者が到着して、患者の声が聞こえたらしく、異変のなさに気付き、私たちを軽くひと睨みしてきた。


駆けつけた時は、確かに容体が急変していたように見えたのに…。


疑問と不安と納得のいかなさはあるが、

患者が無事なのが1番だ。


私たちは大部屋の方達に騒がしくしてしまった事を詫びて、ナースステーションに戻る事にした。


病室から出る際に部屋の中に目を向けると、

病室の隅に何かが見えた。


黒い人型のモヤが見えた。

先程患者の背中から出たものだと、確信した。


同僚や、1番モヤに近い患者さんも気付いている素ぶりはない。


…私にしか見えていない。


思わず口角が上がったが、同僚に不審に思われないように軽く咳払いをして部屋を後にした。


あいつは一体何なのだろうか…。


———


その日以来、私は昼でも夜でも、あいつを目にするようになった。


人の形をしていることもあれば、黒い靄のような時もある。

色も一定しない。黒い日も、赤黒い日もあった。


———あいつはいつも病院にいた。


夜勤時に患者の処置のために小さな灯りをつけると、ベッド脇に立っている。


すっと消えることもあれば、目の前の患者に何の前触れもなく入り込むこともあった。


私は何度も見た。

あいつが、医師や看護師、患者、見舞客の中へ溶け込む瞬間を。


入られた人間は、ほとんど気づかない。

少し咳き込む人。胸を押さえる人。

そして――突然、亡くなる人。


全員が同じ現象が起きる訳ではない。


人に入り込んでしばらくすると、あいつはまた出ていく。

そして何事もなかったかのように、人は歩き出す。


選び方の基準は分からない。

待ち構えていることもあれば、通り過ぎた人間を追いかけることもあった。


ますます謎が深まるばかりだった。

あいつの存在理由はなんなのだろうか。


家に帰ると寝る間も惜しんで本を読み、ネット検索をして調べたが、何も分からなかった。


ただ一つ分かっているのは――

あいつは、常に病院の中を動き回っているということだった。



ある夜、私は思い切って同僚達に聞いた。


「ねえ……あれ、見える?」


病室の隅を指さす。


怖がりな上司には叱られ、

霊感があると豪語していた後輩には首を傾げられた。


誰にも、見えていない。

それ以来、個室に入るたび、無意識に隅を探すようになった。

そんな私を気味悪がる同僚もいた。


——私にだけ、見えているのだ。


理由は分からない。

子供の頃から今まで、怪異に興味はあったが、何も遭遇する事はなかった。


ここで亡くなった霊なのか、地縛霊なのか。


入る相手に法則はなく、影響も姿も一定ではなかった。


朝起きても、仕事中も、寝るまでも考える。

…が、答えなんてどこにもなかった。


ただ、あいつはいる。



あいつは——病院のどこにでもいた。

昼でも、夜でも。


毎日、毎日、見るうちに――

恐怖よりも、好奇心の方が勝っていることに気づいた。


あいつは、何なのか。

何のために、ここにいるのか。


そして——

こちらから触れたら、どうなるのか。


考えるのを、やめられなかった。


呼ばれているのか。

それとも、私が呼んでいるのか。


もう、分からなくなっていた。



ナースコールが鳴った。


私は立ち上がる。

廊下の奥、薄暗がりの中に、あいつが立っている。


今夜は、私の中で何かが違った。


境界は、越えてはいけないものだと知っている。

それでも——越えてみたかった。


あいつに触れたら、

何かが分かる気がした。

何かが変わる気がした。


何が、とは分からない。

ただ、今のままではいられなくなる。


それでいい、と。

それでもいい、と。


もう、取り返しのつかないところにいた。


私は、ニヤリと笑って、

患者のもとへ向かった。


——あいつは、もう、

私の中にいる気がする。

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