第一話 豆腐ラーメン、チャーシュー抜き
シンが姿を現したのは、さいたま市岩槻にある一軒のラーメン屋だった。
岩槻城址の外れ。
人形問屋の並びから一本外れた、観光マップにも載らない通り。
NEO埼玉の再開発指定から微妙に外れたこの一角だけは、時間の流れが遅い。
暖簾は色あせ、外壁には「豆腐ラーメン」の文字が手書きで残っている。
かつて“岩槻名物”と呼ばれた味。
県が海に出ても、この店は陸のままだった。
店内は狭く、カウンター六席。
人形の町らしく、隅に古い雛人形の頭部だけが飾られている。
昼時を外しているとはいえ、客は誰もいない。
入口で一瞬、空気を読むように立ち止まり、カウンターに腰を下ろした。
「豆腐ラーメン。チャーシュー抜きで」
厨房で鍋をかき回していた親父の手が、ぴたりと止まった。
「……おまえ」
声に、驚きはない。
むしろ、来ると知っていた者の声音だった。
「生きてたかい」
「死ぬほどの用事がなかっただけだ」
親父はゆっくりと振り返る。
白髪は増え、目尻も深くなった。
だが、岩槻の職人特有の、芯の通った目だけは変わっていない。
「じゃあ今は?」
「死ぬほどの用事ができた」
鼻で笑い、再び鍋に向き直る。
「相変わらず、ろくな理由じゃねえな」
親父は、どんぶりを温めながら言った。
「県が海に出てから、初めてか」
「ああ。岩槻がまだ“岩槻”してるうちにな」
「ここも、そのうち人形博物館の分館にされるらしいがな」
スープが注がれ、豆腐が静かに沈む。
刻みネギ。
チャーシューは入らない。
シンは湯気を見つめたまま、ふと思い出したように口を開いた。
「……越谷の奴は?」
親父の手が、一瞬だけ止まる。
だが、すぐに何事もなかったかのように鍋を揺らし、短く答えた。
「現役だ」
「そうか」
「品揃えは……どうなったかな」
親父は、どんぶりをカウンターに置きながら言った。
「余計なもんが増えただけだ」
シンは、わずかに口角を上げた。
それが笑みと呼べるかどうかは、本人にもわからない。
「埼玉らしいな」
「褒め言葉じゃねえぞ」
「知ってる」
箸が動き、豆腐が崩れる。
――変わらない。
戦場をいくつ越えても、これは岩槻の味だった。
「で」
親父が低い声で言う。
「今度は、どこの連中に追われてる」
「TIS」
「東京か」
「CIA」
「千葉だな」
「それから……県そのもの」
親父は何も言わず、カウンターの下から古い紙束を出して、滑らせた。
新聞の切り抜き。
貨物船沈没事故。
見出しの下、小さく添えられた文字。
――所沢港関係者、行方不明。
「昨日、ここに来た女がいる」
「……」
「岩槻の人形の由来を全部知ってた。
観光客の知識じゃねえ」
シンの脳裏に、所沢港で視線を交わした女が浮かぶ。
箸が止まる。
店の外を、警備ドローンが低空で横切った。
赤いセンサーが、ガラス越しに一瞬だけ光る。
親父が言った。
「面倒ごとは、持ち込むなよ」
「それは無理だ」
シンはスープを飲み干し、どんぶりを置く。
「岩槻は、昔から戦の要衝だ」
立ち上がり、代金を置く。
「城があった場所には、必ず血が集まる」
暖簾をくぐり、外へ出る。
人工雲に覆われた空の下、
岩槻の町は静かに息を潜めていた。
だが、シン・ニシウラワが戻った以上、
ここもまた、戦場になる。
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