関東覇王録 ―NEO埼玉戦記―
原田広
プロローグ:潮のない県の海
2050年1月1日。
その日、地図から「埼玉県」は消えた。
正確には、陸から消え、海に現れた。
東京都と群馬県への領土売却。
その代金と、埼玉りそな銀行が“未来への投資”の名のもとにかき集めた県民の貯金は、すべて千葉県沖へ注ぎ込まれた。
巨大な影が太平洋に浮かぶ。連なる人工島――メガフロート群。
県史上初の海。
そして、宣言。
「NEO埼玉県、ここに建県す」
かつて海なしを自嘲していた県は、無限の潮流発電、深海鉱床、そして法も倫理も緩和された“なりふり構わぬ技術特区”を手に入れた。
生み出される超技術は兵器へと転用され、超磁力兵器、重力偏向装甲戦車、無人艦隊が次々と実戦配備されていく。
野望は隠されなかった。
関東の覇王――それがNEO埼玉の目標だった。
東京都は極秘裏に情報機関を再編し、TIS(Tokyo Intelligence Service)を発足させる。
首都の威信を賭け、NEO埼玉の台頭を阻止するために。
だが、敵は一つではない。
NEO埼玉を裏から支援し、混乱に乗じて東京都そのものの買収を夢見る千葉県――CIA(Chiba Intelligence Agency)。
埼玉併合推進派と反対派の内戦状態に陥り、機能不全に陥った茨城県――茨城特務諜報庁。
買収した旧埼玉領土が不良債権と化し、破綻寸前の財政を救うため、東京都に“返品”を画策する群馬県――群馬諜報院。
判断を下せず八方美人を貫き、右往左往する栃木県――栃木文化庁。
そして、すべてを静観し、漁夫の利を狙う神奈川県――神奈川情報局。
思惑は交差し、嘘と裏切りと血がメガフロートの下で絡み合う。
そんな最中――
銚子-所沢間定期貨物船沈没事故が起きた。
埼玉型超磁力兵器の暴走か、他県によるテロか、それとも単なる事故か。
根拠のない噂が関東を駆け巡り、緊張は臨界点に近づいていく。
そしてその日。
所沢港に、一人の男が降り立った。
名は――シン・ニシウラワ。
大宮生まれ。埼玉大学在学中、突如中退し、スペイン外人部隊へ志願。
北海道内戦、第二次戊辰戦争、江の島独立戦争――
血と硝煙の最前線を渡り歩き、「死神の鎌研ぎ」と恐れられた元傭兵。
佐渡ヶ島へ向かったという噂を最後に、消息は途絶えていた。
入県ゲートを通過した彼は、立ち止まり、空を仰ぐ。
人工の空の向こうから吹き抜ける風に、わずかな潮の香りが混じっていた。
表情は無く、過去も感情も、そこには映らない。
離れた場所から、その姿を見つめる女がいた。
正体不明。名を――クミ・イノウエ。
彼女の視線に気づいた瞬間、シンはわずかに顔を上げる。
一瞬だけ視線が交わり、何かが交わされた。次の瞬間、何事もなかったかのように逸らされた。
十万石まんじゅうを模した巨大レドームが、港湾区に不気味な影を落としている。
シンはそれを一瞥すると、歩き出した。
向かった先は、みそポテトの屋台。
揚げ油の匂い。
懐かしい、埼玉の味。
各県のエージェントたちは、固唾を飲んでその背中を追う。
この男は誰に呼ばれ、何のために、この海上県へ戻ってきたのか。
それとも――
これは、彼自身の意志なのか。
潮風のない県が、海を手に入れた日。
関東の運命を揺るがす歯車が、静かに回り始めていた。
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