第2話 扉越しの旋律

 毎週水曜日、仕事終わりにバイオリンを担いで教室に向かう。

 教室の入り口で腕時計に目にやる。

 18時47分。良かった間に合った。


 私のレッスンは19時からだが、10分前には着くように来ている。

 なぜか。あの人の音を聞きたいからだ。

 個人レッスンはグループレッスンとは違いレッスン時間は30分だ。レッスンの後半は曲の練習をしていることが多いため、10分前に着ければあの人のバイオリンを聞くことができる。


 スタジオの前の椅子に腰をかけ、弓を張り松脂をつけながら耳を傾ける。

 今週も先週と同じ曲を練習しているみたいだ。ブラームス『ハンガリー舞曲第5番』。情熱的な曲調に深く艶のある音色が絡み独特の雰囲気を醸し出している。非常に有名な曲だが、今まで聞いたどのハンガリー舞曲とも違う、あの人にしかできない演奏に仕上がっている。

 入れ替わりの時に軽く会釈するだけの、名前も知らないあの人の音が私は好きだ。深く、妖艶で、どこかミステリアスかつ少し甘さも感じる音。何をどう練習すればあの音が出せるのだろう。

 ふと顔おあげると、発表会のお知らせが貼ってあるのが目に入った。

 4か月後か。いつかは出てみたいと思っているが、今の私の腕ではとてもじゃないが人前で演奏するのは気が引ける。

 あの人は出るのだろうか。もし出るのであればぜひ見に行きたい。


 そうこうしているうちにレッスンが終わり、ドアが開いた。

「どうぞ~」と先生の声がする。


 あの人に会釈をして教室に入る。

 私がバイオリンをケースから出していると、他の二人のために開けておいたドアを先生が閉めた。

「お二人お休みみたいで、今日は綾瀬あやせさんお一人です」

「そうなんですか、残念です」

 残念です、と口ではいいながら、内心ラッキーと思っていた。誰が休んでいようと、グループレッスンは1時間きっちりレッスンが行われる。他二人がお休みということは、1時間みっちり個人レッスンが受けられるのと同じだからだ。

 それに、少し先生とおしゃべりもできる。

「先ほどの方、すごく上手ですよね」

 思い切って聞いてみた。あの人に話しかける勇気はないが、2年間教わっている先生とは多少打ち解けられ、雑談ができる程度にはなっていた。

「ああ、広田ひろたさん、本当お上手なんですよね」

 あの人は、広田さんというらしい。

「どのくらいやったらあんな風に弾けるんですか?広田さんはここ長いんですか?」

「それは人にもよりますけど、、、広田さんはどうかな、ここは3年程度ですけど、昔少しやっていたみたいですよ。あまり自分のことはお話にならないので、どのくらいやっていたのかは分かりませんけどね」

「そうなんですか、まあそうですよね」

 それは人によるに決まっている。が、さすがにあの音は数年で身につけられるものではなさそうだ。昔やっていたというのは、きっと小さいころからバイオリンを習っていたのだろう。高校か大学で辞めて、また始めたくなったのかもしれない。

「そういえば、発表会のお知らせ貼ってありましたけど、広田さんは出られるんですか?」

「広田さんですか?まだそのお話はしていないので分かりませんが、綾瀬さんはどうです?2年習われていますし、弾ける曲もたくさんあると思いますよ。発表会前だけ個人レッスン入れることもできますし、お一人で出るのが緊張されるようでしたら、ここのグループ皆さんで出られても良いですし!」

 先生の目がキラキラしているように見える。参加者が少ないのだろうか、あるいは私に期待してくれているのか、どちらだろうか。

「いえ私はまだ、ちょっと難しくないですかね」

 一人で人前に立つほどの自信はないが、このグループで出るくらいなら出ない方がマシだとは思う。ひどい言い方だが、開放弦もろくにならせない人があと4か月練習したからと言って、曲が弾けるレベルにはならないだろう。

「そんなことないですよ、大人になってから習い始めて1年で出る方もいらっしゃいますし、綾瀬さんは耳もいいから、少し難しい曲やってもいいくらいだと思います」

「じゃあ、広田さんが出るなら出ます」

「広田さんとお知り合いでしたか?」

「いえ、そういうわけでは・・・」

 私は何を言っているんだ。広田さんが発表会に出ようと出まいと、私のバイオリンの腕は変わらない。広田さんがでるかどうかは、私が発表会にでるかどうかと一切関係はない。なのに。これでは自分をだしにしてでも広田さんに発表会に出てほしいと言っているようなものではないか。広田さんが弾く曲を扉越しではなくきちんと聞いてみたい、という思いで変なことを口走ってしまった。

「分かりました、広田さんに聞いてみますね」


 そのままレッスンは始まったが、発表会と広田さんのことを考えていたらいつの間にか終わっていた。

 ああ、またやってしまった。レッスンの時間くらいバイオリンに集中しなければと、先週反省したばかりなのに。

 お疲れ様ですというフロントの声を背中にエレベーターホールに向かいとぼとぼと歩く。今日の夕飯は何にしようか。昨日のカレーの残りでも食べようか。でもご飯炊いてないしな、冷凍ご飯はあったっけ。

 エレベーターホールにつくと、先に待っている人の背中についさっき教室の前でみたようなバイオリンケースが目に入った。

 広田さん?いやでも、レッスンは1時間前に終わったはずだ、いるはずがない。

 そのままエレベーターの前まで足を進める。

 やっぱり広田さんだ。教室の入れ替わりの時しか顔は見ないが、さすがに別人ということはないだろう。

 どうしてこの時間に?いままで会ったことはないのに。

 あなたのバイオリンのファンですとか、発表会でますか?とか、なぜここに?とか、話しかけたい言葉はたくさん浮かんでくるが、声をかける勇気はでてこない。

 どうしよう、聞きたいことはたくさんある。でも私のことなど覚えていないかもしれないのに、突然声をかけていいのだろうか。でも、この機会を逃したら次に声をかけるチャンスなどないかもしれない。

 思いきって、声をかけてみようか。


「あ、あの・・・」

 


 


 

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