波打つ音の二重奏

音野奏海

第1話 何もない

 イチ、ニー、サン、シー、1、2、3、4、―


 大人のバイオリン教室は、今日もストロークの練習から始まる。

 綾瀬乙羽あやせおとは、28歳、独身。営業事務のしがないOL。

 バイオリン教室に通い始めて2年、いまだにストロークがぶれる。


 ラー、ラー、ラー、ラー、ミー、ミー、ミー、ミー、―


 仕事終わり、毎週水曜日19時から1時間。教室手前から50代女性、30代女性、そして私。

 何を目指すわけでもなく、ただやってみたい、バイオリンってカッコいい、そんな気持ちで始めただけのバイオリン。他の二人もきっと同じだろう。

 現に先月入会したばかりの50代女性はレンタルのバイオリンをギーギーと鳴らしている。


 1、2、3、4、1、2、3、4、―


 かくいう私も、2年も通っていまだに初心者クラス。バイオリンを初めて触る人と同じレッスンを受けている。

 こんなレッスンで、あの人の様な音は出せるようになるのだろうか。

 あの人――このレッスンの一コマ前に、個人レッスンを受けている男性。歳は私と同じか、少し上くらいだろうか。

 それはもう上手で、本当に同じバイオリンを弾いているのかというくらい、私の音とは似ても似つかない深くて艶のある音を奏でている。正直、先生の音より好きだ。いったいなぜあんなにも上手な人が大人のバイオリン教室になど通っているのだろうか。


「綾瀬さん、次のページ開けますか?」

「あ、はい、すみません」


 いけない、今日はレッスンに身が入らない。なぜだ。あれか。仕事での些細なミス。ちょっと発注書の金額を間違えただけではないか。すぐに気づいて修正したし、取引先からも特におとがめはなく、上司にも先輩にも何も言われなかった。なのに、何をひきずっているのだろう。小さいときから何をやってもうまくいかなくて、こんどこそ、仕事こそは頑張ろうと思ったけど、やはり完璧にはうまくいかない。別に小さいミスの一つや二つあったっていいではないか、頭ではそう理解しているのに、なかなか完璧主義のべき思考から抜け出せないでいる。


 ああ、そういえば来週は千佳ちかの結婚式だ。千佳は高校時代の同級生で、1年生の時に同じクラスで同じ部活で仲良くなった。いつも明るくて、しっかり者で、でも弱いところを見せるのも甘えるのもうまくて、私の憧れだ。10年前までは馬鹿なことして一緒に笑っていたのに、もう結婚か。

 同じく高校時代の部活仲間の美里みさとはもうすぐお母さんになるらしい。美里とは結婚式以来会えていないけれど、おっとりして優しいのに言うことははっきり言うところは変わっていなかった。きっといいお母さんになるだろう。

 美里も千佳の結婚式にはくるだろうか。久しぶりに会えたら嬉しいな。また「乙羽はまだ彼氏いないの?」なんて言われるだろうか。もちろんいないし、いたこともないのだが、仲の良かった子たちの結婚式に行くたびに、ほんの少し焦る。今の時代、何も結婚して家庭を持つことだけが幸せの形ではない。一人で生きていく人もいるだろうし、私にその強さはないが、結婚しなくても一人とは限らない。友達とか、同じ趣味の仲間とか、習い事の先生とか、話し相手になってくれる人くらいいるだろう。だけど、友人たちの幸せそうな顔を見ていると、いつかは私もと思わずにはいられない。


「綾瀬さん?もう一つのテキスト、お持ちですか?忘れちゃいました?」

 いけない、またぼーっとしていた。

「すみません、持っています」


 何か一つでも、得意なことがあれば。何か一つ、夢中になれることがあれば。

 そう思って小さいころから憧れていたバイオリンを手に取った。うまくなれるとは端から思っていない。それでも、あこがれの曲は弾けるようになりたいし、人前で弾いても恥ずかしくない程度には弾けるようになりたい。そう思っていたのに、なんだこの上の空具合は。ひどい。ひどすぎる。決して安くない月謝を払っているのだから、家での練習がなかなかできなくても、せめてレッスンの時間くらいは集中しなければ。


 その後は何とかバイオリンに意識を保ちつつレッスンを終えた。

 『オーラ・リー』小学生の時にリコーダーで演奏した覚えがある。この曲をレッスンでやるのは2回目な気がしたが、始めたばかりの人がいるから仕方がない。もっと早く次に進みたい気もしているが、家での練習ができていないことに負い目を感じ、なかなか言い出せないでいる。


 今日の夜ご飯は何にしようか。作るのは面倒だしコンビニで済ませようか。いや、今月は結婚式のご祝儀もあって厳しいし、家で卵かけご飯でも食べようか。


 28にもなって情けない。

 自分を責める言葉を何とか振り払って帰路についた。



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