第3話 竜神の名と、目覚めの朝
鐘楼の入口は、霧で白く濡れていた。
石段を上るたび、瞼が重くなる。誰かが欠伸をしただけで、周囲の眠気が伝染するみたいに広がった。
「やばい……ここ、寝落ちスポットだ……」
ミゴールがふらつく。スターリンツはすぐ、合図を出した。指を二回、軽く振る。
「……深呼吸、三回!」
ミゴールは悔しそうに眉を寄せながらも、言われた通りに吸って吐いてを繰り返す。
すると、目の焦点が少し戻った。
「効く……! くそ、悔しいけど効く!」
「悔しがる暇はない。上へ」
子ドラゴンがスターリンツの肩から飛び降り、霧の中を嗅ぎ回る。鼻先が塔の内壁に沿って動き、ある一点で止まった。
「きゅ……!」
小さな爪で、石の継ぎ目を引っかく。そこだけ霧が濃い。まるで、壁の内側から湧いている。
「供給源が壁内。鐘の機構と繋がっている」
スターリンツは槍の男に視線を向ける。
「壁の裏へ回れる通路は?」
「ある。俺が案内する。……だが、鐘楼の管理人がいるはずだ」
「管理人?」
「寝てなきゃいいがな」
階段の踊り場に、布団が敷かれていた。
その上に、背の高い老人が大の字で寝ている。胸の上には、鍵束。寝息はやけに規則正しく、鐘の音と同じリズムだった。
ミゴールが顔を近づける。
「おい、じいさん! 起きろ! 勇者――」
スターリンツがミゴールの口を手で塞ぐ。
「大声は逆効果。刺激は段階的」
「むぐぐ!」
スターリンツは、パン屋でもらった焼き損ねパンを割り、香りを立てて老人の鼻先へ持っていった。
老人の眉がぴくりと動く。
「……焼きたて……?」
「今なら食べられる。起きて」
老人はゆっくり目を開け、焦点の合わない瞳で二人を見た。
「……誰じゃ……」
「スターリンツ。霧を止めたい。鐘の仕組みを教えて」
老人は鍵束を握りしめ、苦しそうに額を押さえた。
「止めたい……止めねば……だが……鐘は、わしが止められん……」
「なぜ」
「わしが鳴らしておるのではない。鐘が……鳴らされておるのじゃ。竜の眠りで」
その言葉に、子ドラゴンが「きゅう!」と怒ったように鳴いた。
霧が一瞬だけ渦を巻き、鐘の音が低く強くなる。
ミゴールが剣を構える。
「つまり、鐘の裏に黒幕がいるってことだな! よし! ぶった斬――」
スターリンツが合図。二回。
「……深呼吸、三回!」
「うおお! 今いいとこだったのに!」
それでもミゴールは深呼吸し、剣先を下げる。
「戦う前に確認。鐘を止める条件は?」
スターリンツが老人に問うと、老人は鍵束の中から青い石のついた鍵を選び、差し出した。
「最上階。鐘の軸の根元に、竜紋の蓋がある。その中に……竜神の名が刻まれた石がある。名を呼び、真実の約束を捧げれば……霧はほどける……はず……」
「竜神の名?」
スターリンツは既に聞いている。神域で響いた名。
だが、今ここで必要なのは“呼ぶ側の心”だ。
最上階へ向かう途中、霧はさらに濃くなった。
街の協力者たちが、途中で膝をつき始める。
「……だめだ、足が……」
「眠い……」
スターリンツは即座に判断する。
「全員、ここで待機。無理に上がると倒れる。槍の人は入口の確保。私は上へ行く」
槍の男が反論しかけるが、子ドラゴンが低く唸るのを見て黙った。
ミゴールがスターリンツの隣に立つ。
「俺も行く」
「あなたは眠気に弱い」
「……だからって、置いていかれるのは嫌だ。約束しただろ」
スターリンツは一拍置き、頷いた。
「合図を守るなら」
「守る!」
最上階の扉の前で、霧が壁のように厚くなった。
扉の隙間から、鐘の音が直接流れ出ている。耳の奥が甘く痺れ、意識が溶けそうになる。
ミゴールがふらついた瞬間、スターリンツは彼の肩を掴んだ。
「合図」
「……深呼吸、三回!」
ミゴールは自分で言い、吸って吐いた。
その姿に、スターリンツの胸元の護符がまた温かく灯る。
『……がんば……れ……』
眠る恋人の声が、さっきよりはっきりした。
「聞こえてる。もう少し」
スターリンツは鍵を差し込み、扉を開けた。
鐘は、巨大だった。
だが、鳴らしているのは鐘そのものではない。
鐘の軸の根元、竜紋の蓋の中に、黒い霧が渦を巻く小さな核があった。
核はまるで心臓のように脈打ち、鐘を揺らして音を生んでいる。
「霧の核……!」
ミゴールが剣を振り上げる。
「今度こそ――」
スターリンツは止めない。
代わりに、冷静に言う。
「斬っても霧は散るだけ。再結合する。必要なのは“名”と“約束”」
ミゴールは剣を下げ、唇を噛んだ。
「……じゃあ、約束って何だよ。神さまに提出する書類か?」
「書類ではない。心の方向。嘘のない言葉」
スターリンツは竜紋の蓋を開け、内側の石板を見た。
そこに刻まれた文字は、神域で聞いた響きと同じだった。
「竜の神の名――ウル=ドラサル」
名を口にした瞬間、霧の核がびくりと跳ねた。
鐘の音が一瞬だけ途切れ、代わりに“眠りの声”が囁く。
『眠れ。考えるな。争え。ひとりになれ』
ミゴールの目が揺れる。対立癖が、霧に撫でられて目覚めそうになる。
「……あいつ、さっき俺を偽物って言った……!」
スターリンツはすぐ、ミゴールの手を握った。
「合図」
「……深呼吸、三回!」
ミゴールは息を整え、そして、スターリンツの目を見た。
「俺……俺はさ。見捨てられるのが怖い。だから先に噛みつく。だけど……君となら、やめられる気がする」
スターリンツは頷き、霧の核へ向けて言葉を投げる。
「ウル=ドラサルの名において告げる。私は協力を選ぶ。誰かを眠らせて孤立させる力は、ここで終わらせる」
霧が一瞬たじろぐ。
だが、最後の鍵は“初めての約束”だ。
スターリンツは護符を握り、胸の奥の言葉を探した。
恋人はまだ眠っている。けれど声は届く。ここにいる。
「ミゴール。約束を更新する」
「更新って言い方!」
「置いていかない。あなたも、私を一人で背負わせない。逃げたくなったら、合図を言う。必ず」
ミゴールは驚いた顔をして、次に照れくさそうに笑った。
「……ああ。約束する。俺は……君の隣で役に立つ」
その瞬間、子ドラゴンが鐘の軸へ飛びつき、小さな炎を吐いた。
炎は霧を燃やさない。代わりに、霧の“眠気”だけを焦がすように、暖かい光になった。
霧の核が悲鳴のように震え、ひび割れた。
スターリンツは最後に、護符へ囁く。
「ハル。あなたとした約束も、ここで守る。必ず起こす。帰る道がなくても、朝は作る」
護符が眩しく光った。
石の奥で、眠っていた光が跳ね上がる。
『……リン。……おはよう』
声と同時に、霧の核が砕け散った。
鐘の音が止まり、塔の窓から白い霧がほどけて流れ落ちる。
階段を下りると、街が変わっていた。
誰かが笑い、誰かが泣き、パン屋の煙突から煙が上がっている。噴水が水を吐き、鳩が羽ばたいた。
「……朝だ……!」
ミゴールが叫び、すぐ自分で口を塞いだ。
「……あ、刺激は段階的!」
スターリンツは小さく笑った。
その笑いに、胸元の護符が温かく応えた。
槍の男が近づき、気まずそうに頭を掻く。
「……すまん。偽物とか言った。だが、あんたら……やったな」
ミゴールは胸を張りかけ、スターリンツの視線を思い出して深呼吸。
「……まあな。俺は勇者ミゴールだ。今日は、相棒がすごかった」
スターリンツは淡々と返す。
「今日は、協力がすごかった」
子ドラゴンが「きゅ!」と鳴き、二人の間に割り込んで尻尾を振った。
空の上では、巨大なドラゴンがゆっくり旋回し、朝日に鱗を光らせていた。
竜神ウル=ドラサルの気配が、風に混じる。
『――朝を起こしたな。小さき者どもよ』
スターリンツは護符を握り、頷いた。
「あなたの世界はまだ眠い。けれど、起こせる」
ミゴールが鼻を鳴らす。
「次は、俺の名声も起こしてやる!」
「それは勝手に起きる」
「くっ……!」
街の笑い声に混じって、ミゴールの悔しそうな声が響いた。
それが、スターリンツには心地よかった。
眠りの霧は消えた。
恋人は起きた。
そして、初めての約束は、ここから続く。
朝は、一度きりじゃない。
二人と一匹は、次の朝も起こせると知っていた。
スリープモードの恋人と、竜神ウル=ドラサルの朝 mynameis愛 @mynameisai
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