第2話 パン屋と喧嘩と、初めての約束
最初の街は、静かすぎた。
市場の屋台は布をかけたまま。広場の噴水は水を吐かず、鳩だけが眠そうに首をすくめている。
「……全員、夜更かし?」
ミゴールが小声で言う。
スターリンツは地面を指さした。靴跡がふらついている。まっすぐ歩けていない。
「夜更かしでは説明不足。注意力の低下。霧の影響が濃い」
子ドラゴンが鼻を鳴らし、街の端にある店へ顔を向けた。
焼きたての匂いが、かすかに残っている。
木の看板に、パンの絵。
扉を押すと、鈴が鳴った。だが店内の主人は、カウンターに突っ伏して寝ていた。
「起きてくださーい! 勇者が来たぞー!」
ミゴールが大声を出す。
主人は「うーん」と唸り、頭を持ち上げかけて、また落ちた。
スターリンツは、カウンターの上に置かれた粉袋を見た。封が甘い。床に白い筋。水瓶は空。火床は消えかけ。
「パン作りの途中で眠った。霧が“作業の続き”を奪っている」
子ドラゴンが火床に近づき、小さく息を吐いた。ぽっ、と火が戻る。
その瞬間だけ、主人のまぶたが少し開いた。
「……火……あったか……」
「今、あなたのパンが必要。街を起こす」
スターリンツは主人の手に、温いパンの端を握らせた。焼き損ねた小さな塊だが、香りは確かだ。
主人はもぐもぐ噛み、ゆっくり起き上がった。
「……なんだい、あんたら……」
「俺は勇者ミゴール! 彼女は――」
「スターリンツ。霧の発生源を知りたい」
主人は目をこすり、顔をしかめた。
「霧? ああ……鐘楼の方からだ。夜明け前に、変な鐘が鳴って……そのあと、眠くて眠くて。客も来ない。パンも焼けない」
鐘楼。音。眠りを呼ぶ音。
スターリンツの脳内で因果が線になる。
「鐘を止めれば霧も止まる可能性が高い」
「よし、鐘楼へ突撃だ!」
ミゴールが店を飛び出そうとするのを、スターリンツが腕を掴んで止めた。
「先に街の人を起こす。協力が必要」
「協力? 俺一人で十分――」
スターリンツは真顔で返す。
「十分ではない。あなたは対立しがち。鐘楼で揉めたら終わる」
「うぐっ……自覚はある!」
主人は二人を見比べ、ため息をついた。
「なら、これ持っていきな。焼き損ねだが、腹に入れば動ける」
紙袋に入ったパンを渡してくる。
スターリンツは礼を言い、すぐ店内の手伝いを始めた。水を汲み、粉を計り、火床の風を調整する。主人は目を丸くした。
「手際がいいね。弟子かい?」
「前の世界で、工程管理をしていた」
「こっちの世界でも管理してるじゃねぇか……俺の出番が……」
ミゴールがぼやくと、子ドラゴンがパン袋を頭で押し、ミゴールの腹へ渡した。食べろ、という圧。
ミゴールはむくれながら噛みしめ、少し機嫌を戻す。
「……うまい。よし。俺は街の連中を叩き起こす! 勇者の号令で!」
「叩かない。声は一定。刺激は段階的」
「細けぇ!」
それでもミゴールは外へ出て、広場で大げさに咳払いをし、ほどよい声量で呼びかけ始めた。
――スターリンツの指示どおりに。
パンの匂いが街に流れると、眠っていた人々が少しずつ目を開けた。
起き上がった人は「ここでパンを配る」と口にし、別の人は井戸へ行き、水を運び、また別の人は鐘楼の様子を見に行くと言った。
協力の連鎖。
スターリンツが作りたかった形。
その輪の中心で、ミゴールが妙に張り切っていた。
「見たか! 俺の号令で街が動く! 俺、人気者!」
だが、広場の端で、槍を持った若い男が冷ややかに言った。
「号令? パンの匂いで起きただけだろ。目立ちたいだけの偽物が」
「はぁ!? 誰が偽物だ!」
ミゴールの眉が跳ね上がる。衝突の火花。
スターリンツはすぐ間に入った。
「今は争う価値がない。鐘楼へ向かう人手が減る」
「でもコイツが――!」
槍の男が鼻で笑う。
「勇者なら証拠を見せろ。ドラゴンと共に戦う勇者の冒険? 口だけか」
その言葉に、ミゴールの肩がピクリと震えた。
彼は注目を欲しがる。だからこそ、否定に弱い。
スターリンツは、ミゴールの前に立ち、槍の男へ向けて落ち着いた声を出す。
「証拠は行動。鐘楼の鐘を止め、街の眠りを終わらせる。あなたも手を貸す?」
槍の男は一瞬詰まり、周囲の視線を気にして、ぶっきらぼうに頷いた。
「……街が眠ったままは困る。行く」
ミゴールは悔しそうに唇を噛んだが、スターリンツの横顔を見て、言葉を飲み込んだ。
鐘楼へ向かう道すがら、ミゴールが小声で言った。
「俺、さっき……殴りそうになった」
「殴らなかった」
「君が止めた」
「私が止めた」
ミゴールは頬を膨らませたまま、視線を落とす。
「……俺さ。褒められたい。見てほしい。だから、すぐ熱くなる」
「理解した。対策を作る」
「対策って、また管理?」
「あなたが熱くなったら、私が合図を出す。あなたは三回、深呼吸。返事は短く」
「……子ども扱い!」
「有効」
ミゴールは不服そうに笑い、ふいに真面目な顔になった。
「スターリンツ。約束してくれ」
「内容」
「俺がまた熱くなっても……置いていかないでくれ。役に立てるようにするから」
それは、彼にとっての初めての約束だった。
見捨てられない保証。
注目の裏にある、怖さ。
スターリンツは少しだけ目を細めた。
「置いていかない。代わりに、合図を守る」
「……よし!」
その瞬間、スターリンツの護符が、ポン、と小さく温度を上げた。
淡い光が、さっきより長く灯る。
『……リン……笑った……?』
眠る恋人の声。かすれているが、確かに届いた。
「聞こえた。もう少しで起こせる」
スターリンツは護符を握りしめた。
“初めての約束”が、護符の奥の眠りに触れた気がした。
鐘楼が見えてくる。
白い霧が、塔のまわりにだけ濃く巻きついていた。
そして、低い鐘の音が――眠気そのものみたいなリズムで、街へ垂れていた。
ミゴールが剣を抜く。
「行くぞ。俺たちで朝を取り戻す!」
子ドラゴンが小さく吠え、翼を広げる。
スターリンツは深呼吸し、協力者たちへ指示を出した。
「鐘楼の入口を確保。鐘の仕組みを確認。霧の流れを遮断」
眠りの音へ、こちらから“目覚めの段取り”をぶつける。
勝負は、これからだ。
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