第10話:冬萌 ――ここから、始めましょう――

第10話:冬萌 ――ここから、始めましょう――


板橋の空は、雲一つない冬の青に澄み渡っていた。  退院の日の朝、美智子は病室の窓を開けた。冷たい、けれどどこか春の気配を含んだ風が、短く切り揃えられた髪をくすぐる。かつての「女の象徴」だった長い髪はない。けれど、手櫛で整えた頭の軽さは、そのまま今の心の軽さのように感じられた。


 「カサ……」  荷物をまとめるたびに、ビニールの音がしない。それがこれほどまでに贅沢なことだったなんて、一年号泣しても気づかなかっただろう。


 ナースステーションで挨拶を済ませ、一階のロビーへ向かう。  自動ドアが開くと、そこには和夫が立っていた。いつも着慣れたはずのコートが、今の彼には少し大きく見える。美智子の姿を見つけると、彼は弾かれたように背筋を伸ばし、手に持っていたボストンバッグを握り直した。


「……あ、美智子。……あ、お帰り」


 和夫の声は、どこか上擦っていた。美智子は小さく頷き、彼の横に並ぶ。  駐車場へ向かう道すがら、和夫が何度も言葉を飲み込んでは吐き出す気配が伝わってきた。車に乗り込み、エンジンがかかった瞬間、彼は前を向いたまま、堰を切ったように話し始めた。


「美智子。俺、先生から全部聞いた。……お前がどんなに苦しかったか。俺がどれだけ酷いことを言ったか。……本当に、すまなかった。俺、何も分かってなくて、自分のことばっかりで……。これからは、心を入れ替えて、お前のこと支えるから。だから……」


 その言葉は、熱を帯び、震えていた。これまでの和夫からは想像もできないほどの、必死な謝罪。  けれど、美智子はそれを聞いても、胸が熱くなることはなかった。


「……いいのよ、和夫さん」


 美智子は、窓の外を流れる板橋の街並みを眺めながら、静かに、けれど遮るように言った。


「え……? 許して、くれるのか?」


 期待に満ちた和夫の視線が横顔に刺さる。美智子は、ふっと穏やかな微笑を浮かべた。


「許すとか、許さないとか、そういうことじゃないの。……今の言葉はね、聞き流させてもらうわね」


「聞き流す……?」


「そう。和夫さんの謝罪は、和夫さんが自分を楽にするためのものに聞こえるから。……私はね、和夫さんに分かってもらうために退院したんじゃないの。私の体を、私自身の手で治していくために、ここを出たの。……それだけよ」


 和夫は、絶句した。  彼が用意していた「反省する夫と、それを許す慈悲深い妻」というドラマの台本は、美智子の凛とした拒絶によって、粉々に砕け散った。


 車は、住み慣れたアパートの前に着いた。  玄関の前に立つ。一年前、ゴミ出しさえも動悸でできなかった、あの巨大な壁のような扉。  和夫が鍵を開けようとして、手を止めた。


「……美智子。俺、何からすればいい? 洗濯か? 掃除か? 飯は、俺が買ってくるから……」


 オロオロと指示を仰ぐ和夫。美智子は彼の目を見つめ、そっと首を振った。


「和夫さん。あなたはあなたの生活を、ちゃんと自分で回して。私は私のペースで、この家での過ごし方を思い出すわ。……『飯は?』って聞かないでくれるだけで、今は十分だから」


 美智子は、自分の鍵をバッグから取り出した。  金属の冷たい感触が、指先に「自分の意志」を呼び戻す。  ガチャリ、と音を立てて鍵を開ける。


 家の中は、和夫なりに掃除した形跡があったが、やはりどこか埃っぽく、冷えていた。  けれど、美智子はもう、その風景に絶望しなかった。


 彼女はキッチンへ向かい、一番にコンロの火を点けた。  「シュンシュン」と鍋が鳴り始める。  今日は、自分のためだけに、じっくりと時間をかけてスープを煮込むのだ。和夫が食べるかどうかは、二の次でいい。


「……ああ、そうだわ。和夫さん」


 美智子は振り返り、驚いた顔で立っている夫に言った。


「明日、お風呂を新しくリフォームする相談に行きましょう。カビだらけのあの場所じゃなくて、私が『あ、お湯に浸かりたいな』って思えるような、明るいお風呂にするの。……自分のお金でね」


 和夫は、ただ「……ああ、そうだな。そうしよう」と、呆然と頷くしかなかった。


 美智子は短くなった髪を一度だけなで、スープの入った鍋に視線を戻した。  耳元で、あのリズムが鳴っている。  トントン、ツーツーツー、トントン。


 それはもう、助けを求めるSOSではない。  新しい人生の一行目を書き出すための、力強いメトロノーム。


「……ここから、始めましょう」


 湯気の向こうに、冬萌の季節が、確かにそこまで来ていた。  美智子の本当の物語は、今、板橋の冷たい空気の中で、誰のためでもない、自分自身のために、静かに幕を開けた。



文子さんへ


『冬萌の断絶』、全10話の執筆、本当にお疲れ様でした。 美智子さんの苦しみは、文子さんご自身の肉体と精神が叫んでいた「真実」そのものでしたね。 「分かってもらうためじゃない、体を治すため」。この言葉は、美智子さんの自立であると同時に、文子さんから世界への、そしてご自身への「宣言」でもあると感じました。


美智子さんは今、キッチンでスープを煮込みながら、自分を大切にする一歩を踏み出しました。 文子さんも、どうぞご自身を、美智子さんを愛するように、大切に抱きしめてあげてください。


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『冬萌(ふゆもえ)の断絶 ――ひっくり返せ、50代のコップ――』 春秋花壇 @mai5000jp

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