第9話:医師の宣告と、和夫の悔恨

第9話:医師の宣告と、和夫の悔恨


病院の相談室は、冬の西日が斜めに射し込み、埃の粒が光の柱の中で静かに踊っていた。  和夫は、パイプ椅子の端に浅く腰かけ、膝の上で何度も拳を握り直していた。正面には、精神科の主治医と、婦人科の担当医が並んで座っている。その事務的で冷徹なほどの静けさが、和夫の喉をカラカラに乾かせた。


「……奥さんの、退院についての説明ですね」


 婦人科の医師が、手元の分厚いカルテを開いた。その中に綴じられた、美智子の内臓を写し出したモノクロの画像。そこには、和夫が一度も想像したことのない「凄惨な現実」が記録されていた。


「和夫さん。単刀直入に申し上げます。奥さんの子宮筋腫は、ただの『こぶ』ではありませんでした。ラグビーボール大まで膨れ上がった腫瘍が、周囲の膀胱、直腸、そして主要な血管を無慈悲に押し潰していたんです」


 医師は画像を指でなぞった。


「これだけの腫瘍があれば、常に内臓が握り潰されるような鈍痛があったはずです。さらに、過多月経による重度の貧血。数値で見れば、普通の人間なら意識を失って倒れていてもおかしくないレベルです。脳に酸素がいかないんです。常に深い霧の中にいるような、激しい眩暈と息切れ……。和夫さん、奥さんはこの状態で、毎日あなたの『飯は?』という言葉に応えて、台所に立っていたんですよ」


 和夫の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。  脳裏に、あの日の光景が蘇る。腰にビニールを巻いてうずくまる美智子に、「掃除が大変だ」「風呂くらい入れよ」と吐き捨てた自分の声が。


「さらに、そこに薬剤性うつが重なりました」


 今度は精神科の医師が静かに口を開いた。


「体からのSOSを無視し続け、無理やり走らされ続けた結果、脳のブレーカーが落ちたんです。奥さんがお風呂に入れなかったのは、怠けでも不潔でもありません。脳が『これ以上動いたら死ぬ』と生命維持のスイッチを切ったんです。和夫さん。あなたは、折れた足で全力疾走を強いられている人間に、『なぜもっと速く走らないんだ』と鞭を打っていた。……それが、私たちが診た、この一年の美智子さんの真実です」


 和夫の視界が、ぐにゃりと歪んだ。  西日の眩しさが、自分を断罪するサーチライトのように感じられた。


「……そんなに。……そんなに、ひどかったんですか」


 絞り出した声が、自分でも驚くほど震えていた。


「俺……俺は……『病気じゃないんだろ』って……。更年期なんて、誰でも通る道だって……あいつに……」


 和夫の胸の奥で、五十数年かけて築き上げてきた「一家の主」としてのプライドが、音を立てて粉砕された。  自分を支えてくれていたのは、美智子の「献身」などという美しい言葉ではなかった。それは、彼女の「削り取られた命」そのものだったのだ。


 あの時。美智子がボロ雑巾のように床にへたり込んでいた時。  彼女は、ただ優しく背中を撫でてほしかったのではないか。  「大丈夫か」と、一言だけ、自分の目を見て言ってほしかったのではないか。


 和夫は、顔を覆った。  指の間から、熱いものが溢れ出す。


「……ううっ……ああああ……っ」


 声を抑えようとしたが、止まらなかった。  いい歳をした男が、病院の相談室で、子供のように肩を震わせて嗚咽した。  自分の無知。自分の慢心。自分の残虐さ。  美智子が腰のビニールをカサカサと鳴らしながら耐えていた、あの孤独な夜の数々に、今の自分がようやく追いついた気がした。


「……ごめん……美智子……。俺……俺は……っ」


 涙でカルテが滲む。  医師たちは、何も言わずに和夫が泣き止むのを待っていた。その沈黙が、和夫にはどんな叱責よりも痛かった。


 しばらくして、和夫は腫らした目で顔を上げた。  その瞳には、先ほどまでの「自分を守るための卑屈な光」はもうなかった。


「……先生。俺、あいつと……一から、やり直せますか。……いや、やり直すなんて、おこがましい。俺に……あいつのために、できることはありますか」


 医師は、初めて少しだけ表情を和らげた。


「美智子さんは言っていました。『分かってもらうためじゃない、体を治すためにここにいる』と。まずは、その言葉を尊重してあげてください。彼女の『回復しようとする意志』を、邪魔しないこと。それが、今のあなたにできる唯一の贖罪です」


 和夫は、力強く、何度も頷いた。  相談室を出る和夫の背中は、以前よりも小さく、けれどどこか剥き出しの人間としての体温を帯びているようだった。


 廊下の向こう。  病室の窓から、美智子は遠くの空を見つめている。  試合の再開を告げる笛の音は、もうすぐそこまで来ていた。


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