第8話:陽子への絶縁状、あるいは自律

第8話:陽子への絶縁状、あるいは自律


板橋の空が、夕暮れの濃い紫に染まり始めていた。閉鎖病棟の面会受付室。ガラス越しに見える外の世界は、美智子にとって、あまりにも鮮やかで、残酷なほどに眩しすぎた。


「美智子さん、親友の陽子さんがお見舞いに来たいとお電話されています。どうしましょうか?」


 看護師の言葉を聞いた瞬間、美智子の指先が、病衣の裾をぎゅっと握りしめた。  脳裏に、陽子のあの屈託のない笑顔が浮かぶ。 「美智子! 最近どう?」「見て、孫が歩き始めたのよ!」「あなたも早くこっち側へ来なさいよ」。


 それはかつて、美智子にとって「自分を奮い立たせるための光」だったはずのものだ。けれど、今は違う。その光は、暗闇の底でようやく息を吹き返したばかりの美智子の心を、焼き殺してしまうほどの劇薬だった。


「……拒否してください。会いたくありません。今は、誰の顔も、見たくないの」


 美智子の声は、細いが、鋼のように硬かった。


「よろしいんですか? とても心配されているようですが……」


「……わかっています。陽子はいい人よ。私のために、素敵な花を買って、自分の幸せな話を、私を元気づけるために聞かせてくれるでしょうね。でも、今の私には、それが毒なんです。他人の幸せを『よかったね』と笑ってあげるための、心の貯金が、もう一円も残っていないの」


 美智子は、窓の外から視線を逸らし、自分の白い、節くれ立った手を見つめた。


「今まで私は、陽子に合わせてきた。彼女の幸せを自分のことのように喜べる『立派な親友』でいようとして、自分を削り、コップの底に穴を開けていたんです。……もう、やめます」


 看護師は少し驚いたように美智子を見たが、やがて優しく頷いた。 「わかりました。美智子さんのお気持ちを最優先しますね。そのように伝えておきます」


 看護師が部屋を出て行った後、美智子はふっと、深い、深い溜息を吐いた。  それは、五十一年間溜め込んできた、自分を押し殺すための古い空気だった。


 陽子を傷つけるかもしれない。冷酷な人間だと思われるかもしれない。  けれど、その恐怖よりも、「自分を守り抜いた」という、かつて味わったことのない爽快感が、美智子の胸を支配していた。


(……ごめんね、陽子。私は、あなたの幸せを喜べるほど、まだ『いい人』じゃないの。でも、それでいいの。これが、今の私なんだから)


 その夜、病室は驚くほどの静寂に包まれていた。  和夫のいびきもない。  明日の夕食の献立を考える焦りもない。  そして何より、あの「ビニール」が必要なかった。


 ホルモン療法で出血はひとまず止まり、強制的に閉経へと向かう肉体は、もうシーツを汚すことはなかった。  美智子は、清潔なシーツの感触を、裸の肌で確かめるように横たわった。


(カサ……とも、鳴らない)


 暗闇の中で、美智子は自分の手を胸に当てた。  ドクン、ドクン。  動悸ではない。穏やかな、生きている者の鼓動だ。


 「NO」と言えた。  親友に。世間に。そして、「自分を後回しにする習慣」に。  それは、美智子が人生で初めて手に入れた、本当の意味での「自律」という名の武器だった。


 耳元のリズムが、今夜は優守歌のように、ゆったりと響いている。  トントン、ツーツーツー、トントン。


 壊れたままでいい。  ボロ雑巾でもいい。  私は、私を救うためだけに、この夜を眠る。


 美智子は、ビニールの軋まない、深い深い眠りの淵へと、静かに、けれど誇らしく沈んでいった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る