第7話:閉鎖病棟のスープ ――味覚の奪還――

第7話:閉鎖病棟のスープ ――味覚の奪還――


板橋の喧騒を遠く離れた、閉鎖病棟の朝。  重厚な鉄の扉が閉まる音は、外界との断絶ではなく、美智子にとっては「義務」という名の暴風雨を遮断する、シェルターの防壁のように聞こえていた。


 真っ白なシーツ。糊の効いた清潔な病衣。  そして何より、一週間ぶりに入らせてもらった風呂の感触が、美智子の肌に残っていた。看護師に支えられ、湯船に浸かった時、こびりついていた鉄の匂いと自分を呪う自己嫌悪が、お湯の中に溶け出していくような気がした。


「美智子さん、顔色が少し良くなりましたね。さあ、朝食の時間ですよ」


 若い看護師の明るい声。美智子はまだ、自分から言葉を発する気力はない。ただ、促されるままに、車椅子に揺られてデイルームへと向かう廊下を移動していた。  その時だった。


(……あ)


 鼻孔をくすぐったのは、微かな、けれど確かな「出汁」の匂いだった。  鰹節と昆布の、深く、落ち着いた香り。それは、かつて美智子が毎朝、眠い目を擦りながら家族のために、欠かさず取っていた出汁の匂いによく似ていた。


 和夫の「飯は?」という催促。子供たちの「これ、美味しい」という笑顔。かつては美智子の誇りであり、幸せの象徴だったその匂いが、いつしか彼女を縛り付ける鎖へと変わり、最後には呪いへと成り果てていた。  けれど、今、この隔離された場所で嗅ぐその匂いは、驚くほど純粋に「美味しそう」だと思えた。


 デイルームのテーブルに置かれたのは、小さなプラスチックの器に入った、根菜のスープだった。  湯気が、美智子の土色の頬を優しく撫でる。


「……これ、飲んでも、いいの?」


 美智子の喉から、掠れた、自分でも驚くほど小さな声が漏れた。


「ええ、もちろん。ゆっくり召し上がってください。体の中から温めましょうね」


 美智子は震える手でスプーンを握った。指先に、自分の髪を拾い集めていた時とは違う、確かな重みを感じる。  一口、スープを口に含んだ。


(……あたたかい)


 舌の上を転がる、野菜の甘み。昆布の旨み。そして、適度な塩気。  それは、ただの栄養素ではなかった。  この一年、腰にビニールを巻いて血の海にいた夜も、髪が抜けて絶望した朝も、美智子の体は常に冷え切っていた。心の奥底まで、凍りついていたのだ。


 その氷が、今、一口のスープによって、内側から静かに溶け始めていた。


「おいしい……」


 言葉が、涙と一緒にこぼれ落ちた。  「生きたい」なんて、そんな大層な願いではない。「明日をどうにかしたい」という希望でもない。  ただ、「もう一口、この温かいものを飲みたい」。  それは、暗闇の底で、死んでいたはずの美智子の肉体が上げた、初めての、原始的な産声だった。


 デイルームのテレビでは、どこかの国のニュースが流れている。  けれど、美智子にとっての世界は今、この小さなプラスチックの器の中にあった。  一歩も、一ミリも動けなかったあの部屋。お風呂の椅子に座ることさえ叶わなかったあの地獄。  そこから、美智子は今、数万光年の距離を移動して、この一杯のスープに辿り着いたのだ。


「先生……私……」


 回診に来た医師に、美智子はスープの器を掲げるようにして言った。   「私、これが……温かいってことが、わかります。味が、します」


「そうですか。それは良かった。美智子さん、味覚を取り戻すことは、自分を取り戻す第一歩ですよ。まずは、自分の体を温めることだけを考えてください」


 医師の言葉が、美智子の心に静かに染み渡る。  「ちゃんとした主婦」として、誰かのために作るスープではない。  「美智子」という一人の、壊れかけた女が、自分を癒すために受け入れる、救済のスープ。


 耳元で、あのリズムが鳴り始める。  トントン、ツーツーツー、トントン。


 かつては逃げ出すためのSOSだったそのビートが、今は心臓の新しい鼓動のように聞こえた。   (ギリギリの……。ギリギリだけど、私は今、ここにいる。温かいものを、美味しいと思える体で、ここにいる)


 美智子は最後の一滴までスープを飲み干した。  お腹の底が、じんわりと熱を帯びる。  それは、筋腫の激痛でも、更年期の火照りでもない、確かな「生」の熱だった。


 窓の外、病院の庭では、冷たい冬の風に耐えながら、枯れ木が静かに立っている。  美智子は、自分の短くなった髪をそっと撫でた。   「……次も、スープが、いいな」


 彼女の小さな独り言が、清潔な病室に、春の芽吹きのような柔らかな光を連れてきた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る