第6話:和夫の暗闇 ――妻のいない台所――

第6話:和夫の暗闇 ――妻のいない台所――


板橋の住宅街に、夜の帳が静かに下りる。  いつもなら換気扇から漂ってくるはずの、出汁の匂いや炒め物の音が、今夜の和夫の家にはなかった。  玄関の鍵を開けた瞬間、押し寄せてきたのは、冷たく沈殿した「無」の空気だった。


「……ただいま」


 返事はない。当然だ。美智子は、精神科の閉鎖病棟という「あちら側」へ行ってしまった。  和夫はスーツを脱ぎ捨てる気力もなく、暗いリビングのソファに腰を下ろした。56歳の体が、いつもよりずっと重く感じる。会社では定年までのカウントダウンが始まり、若手からは腫れ物を触るような敬語を使われる日々。唯一、自分が「主人」として君臨できたはずのこの場所が、今は幽霊屋敷のように薄気味悪い。


「腹減ったな……」


 独り言が空虚に響く。和夫は重い腰を上げ、台所へ向かった。  そこで彼を待っていたのは、美智子の「不在」という名の圧倒的な暴力だった。


 シンクの中には、昨日のコップが一つ、ぽつんと置かれている。  ゴミ箱を開けると、溢れそうになった生ゴミが、ツンとした酸っぱい腐敗臭を放っていた。和夫は顔をしかめ、ゴミ袋を引き抜こうとしたが、どこに予備の袋があるのかさえ分からない。


「おい、美智子。ゴミ袋どこだ……」


 呼びかけて、自分の喉が引き攣った。  引き出しを片っ端から開ける。カトラリー、ラップ、タッパー。どこにもない。ようやく流し台の下の奥底に見つけた時、和夫は膝をついた。床に落ちていたのは、茶色く乾いた「何か」のシミだった。


(……これ、血か?)


 昨夜、美智子がうずくまっていた場所だ。  その瞬間、和夫の脳裏に、入院手続きの際に看護師から渡された、美智子の私物の「汚れ物」の袋が蘇った。    カサ、カサ、と不気味な音を立てていた、黒いビニール袋。    和夫は、美智子が夜な夜な腰にビニールを巻いて寝ていたことを思い出した。あの時は「不潔だ」「掃除が大変だ」と怒鳴りつけた。けれど今、この静まり返った家の中で、一人でゴミ袋を広げていると、その「音」の意味が、毒のように全身に回ってくる。


「……あいつ、どんな気持ちでこれを巻いてたんだ」


 カサ、カサ。  暗闇の中で、誰にも助けを求められず、内臓を食い破るような痛みと、自分の体から溢れ出す血に怯えながら、たった一人でビニールを巻いていた51歳の女。    和夫は、美智子が「動けない」と言った時、それを「怠け」だと断じた。自分が外で戦っている間、妻は家で楽をしていると思い込んでいた。だが、実際はどうだ。この台所には、彼女が死に物狂いで維持してきた「日常」の残骸が、呪いのようにこびりついている。


 冷蔵庫を開ける。  中には、いつ買ったのか分からない人参の切れ端と、賞味期限の切れた納豆。  美智子が倒れる直前まで、震える手で用意しようとしていた「飯」の断片。  和夫は、冷蔵庫のモーター音が、まるで美智子の細い悲鳴のように聞こえて、たまらず扉を閉めた。


「クソッ……なんだよ。何が不満だったんだよ」


 叫んでみたが、自分の声が情けなくて涙が出そうになった。  和夫は、リビングの片隅に置かれた美智子の鏡台を見た。  そこには、ごっそりと抜け落ちた髪の毛が、掃除されないまま、黒い塊となって転がっている。


 美智子が女としての象徴を奪われ、ホルモン剤の副作用でのたうち回っていた時、和夫は何と言ったか。  『薬のせいなら仕方ないだろ』。   「……俺、何様だったんだ」


 56年生きてきて、自分がこれほどまでに無力で、残酷な人間だったと気づかされる日が来るとは思わなかった。  和夫は、暗い寝室に入った。  美智子のベッドに、そっと手を触れる。  そこには、彼女が守ろうとしていた「ビニールの感触」はもうないけれど、冷え切ったシーツからは、あの鉄のような、寂しい匂いが微かに残っていた。


 窓の外、板橋の夜景が滲んで見える。  和夫は、自分が一番恐れていたのは「妻の病気」ではなく、「妻を一人の人間として見ること」だったのだと悟った。システムとして動いてくれる便利な存在。それが壊れたから、彼は怒ったのだ。


 和夫は、暗闇の中で、美智子の枕を抱きしめた。   「……美智子。……ごめん」


 その謝罪は、誰にも届かない。  家の中に充満する「美智子の痛み」の気配が、和夫を押し潰そうとしている。    トントン、ツーツーツー、トントン。    和夫の耳の奥でも、あのビートが鳴り始める。  それは再生の合図ではない。  自分の無知という名の暗闇に、ただ一人取り残された男の、震える心音だった。


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