第5話:再度、精神科へ ――コップが砕ける音――
第5話:再度、精神科へ ――コップが砕ける音――
板橋の街を包む冬の湿った空気が、美智子の部屋の窓硝子を白く曇らせていた。 けれど、その向こう側に何があるのか、美智子にはもう分からなかった。厚手の遮光カーテンを固く閉ざした自室は、昼も夜も判別のつかない泥のような暗闇に沈んでいる。
光が、怖い。 カーテンの隙間から漏れ出すわずかな陽光が、美智子の剥き出しになった神経を、鋭利な剃刀のように切り刻む。 音が、怖い。 遠くを走る電車の音、近所の子供のはしゃぎ声、冷蔵庫の唸り。それらすべてが、巨大な重機で脳を直接粉砕しに来るような暴力として響く。
美智子は、腰にビニールを巻いたまま、万年床の布団に深く潜り込んでいた。 お薬の副作用で、髪はさらに抜け、枕元には黒い残骸が散らばっている。けれど、それを掃除する気力も、自分の姿を嘆く感情も、もはや枯れ果てていた。
「おい、美智子。まだ寝てるのか。いい加減にしろよ、もう昼だぞ」
扉が乱暴に開けられる。和夫の声だ。 光が、ドッと部屋に流れ込む。美智子は悲鳴を上げる代わりに、毛布を頭から被り、体を丸めた。
「……消して。光を、消して……」
「なんだって? 聞こえないよ。なあ、いい加減にしてくれよ。俺だって飯も食わずに掃除して……。お前、いつまでそうやって被害者ぶってるんだ? 病気なのは分かったけどさ、少しは努力ってものが……」
努力。 その二文字が、美智子の耳の奥で、ガラスが砕け散るような音を立てた。 パリン、という硬質な音。 美智子の中で、五十一年間、必死に水を溜め続けてきた「ちゃんとした人」という名のコップが、ついに粉々に砕け散った瞬間だった。
「……むり」
「あ?」
「……もう、無理なの。和夫さん。……一歩も、一ミリも、動けないの」
毛布の隙間から漏れた声は、幽霊の囁きのように掠れていた。 和夫は、カーテンを掴んだまま立ち尽くした。 妻の顔は、死人のように蒼白で、虚空を見つめる瞳には、もはや彼を映す光さえ宿っていない。
「……分かった。もういい。病院へ行くぞ。普通の病院じゃダメだ、あの時の……」
数時間後。 美智子は、車椅子に揺られながら、精神科の閉鎖病棟の入り口にいた。 消毒液の、鼻を突くツンとした匂い。 遠くで誰かが叫んでいるような、呻いているような、くぐもった音。 けれど、美智子にとってその場所は、地獄ではなく、ようやく辿り着いた「奈落の底」という名の安息地だった。ここなら、もう「ちゃんとした主婦」を演じなくていい。
「美智子さん、入院の手続きをしますからね。こちらへ」
看護師の優しい、けれど感情を排した声に導かれ、和夫が受付のカウンターに向かう。 美智子は、ロビーの固い椅子に座らされ、和夫の背中を眺めていた。
(……あれは、誰かしら)
ペンを走らせ、美智子の保険証を差し出し、重苦しい溜息をつきながら書類を書き込む男。 その広い、けれどどこか頼りない背中は、まるで遠い異国の、縁もゆかりもない旅人のように見えた。三十年以上、同じ布団で寝て、同じものを食べ、子供を育ててきたはずなのに。 今、美智子の心には、彼に対する怒りも、恨みも、愛しさもなかった。 ただ、透明なアクリル板越しに、知らない誰かの日常を眺めているような、虚無だけがそこにあった。
「……和夫さん」
手続きを終えた彼が戻ってきて、美智子の前に立った。 彼は美智子の視線を避けるように、自分の爪先を見つめている。
「……とりあえず、ここでしっかり休め。俺もさ……家でどう接していいか、分からなかったんだ。お前があんなに……ボロボロになっていくのを、見てるのも、きつかったんだよ」
きつかった。 彼はそう言った。 美智子が腰にビニールを巻いて血の海にいた時、髪が抜けて震えていた時、彼は「きつい」と言って、妻から目を逸らし、正論という名の逃げ道に隠れていたのだ。
「……そう。お疲れ様でした。……和夫さん」
「……ああ。じゃあ、行くよ。荷物はまた今度持ってくるから」
和夫は、逃げるように踵を返した。 自動ドアが閉まるたび、外の世界の風の音が遮断される。
美智子は、看護師に連れられて、重い鉄格子の付いた廊下を歩き始めた。 (さようなら。……私の、コップ。さようなら、板橋の、あの暗い寝室)
耳元で、あのリズムが鳴っている。 トントン、ツーツーツー、トントン。
ギリギリのダンスは、ここでおしまい。 美智子は、鍵の閉まる音を聞きながら、真っ白なシーツのベッドに身を投げ出した。 そこには、ビニールも、鉄の匂いも、夫の溜息もなかった。 ただ、ただ、底知れぬ静寂だけが、美智子を優しく包み込んでいた。
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