第4話:偽りの閉経と、抜け落ちる髪
第4話:偽りの閉経と、抜け落ちる髪
板橋の空は低く垂れ込め、窓ガラスを叩く冬の雨が、美智子の部屋に冷ややかな静寂をもたらしていた。 体の中の季節が、狂っている。 ホルモン剤の服用を始めて一週間。美智子の肉体は、長い階段を転げ落ちるように、強制的に「老い」の終着駅へと叩き込まれていた。
深夜二時。 凍えるような室温のはずなのに、美智子は全身を貫く猛烈な熱波に飛び起きた。 「……はあ、はあ、熱い。死ぬほど、熱い」 ホットフラッシュ。首筋から吹き出した汗が、シーツを一瞬で湿らせる。かと思えば、数分後には血の気が引くような悪寒に襲われ、三枚重ねた毛布の下で歯の根も合わずに震える。 心臓は、壊れた時計のように不規則なビートを刻み、喉の奥には常に苦い鉄の味が張り付いていた。
朝、ようやくの思いで洗面所に立ち、力なくブラシを髪に通した時だった。
「……っ!」
手元を見て、美智子は息を呑んだ。 ブラシの歯に、黒い糸屑のような塊が絡みついている。一撫でするごとに、抵抗もなく、さらさらと髪が抜けていく。排水口に目をやると、そこには既に、誰か別の人間がそこに座り込んでいたのではないかと思うほどの、ごっそりとした髪の毛の束が、どす黒く溜まっていた。
「私の……髪が。私の、女が……」
鏡に映る自分は、土色の顔色に目の下が落ち窪み、髪が薄くなって地肌が透け始めている。女性としての象徴を、一枚ずつ剥がされていくような恐怖。それは、筋腫の痛みとはまた別の、魂を削り取られるような喪失感だった。
「おい、いつまで洗面所占領してんだよ」
背後から、和夫の声がした。出勤前の彼は、苛立ちを隠さず美智子の横に並び、鏡を見る。足元の排水口に溜まった毛髪に気づくと、彼は一瞬だけ眉を寄せた。
「……すごいな、その抜け毛。掃除しとけよ、詰まるだろ」
「……和夫さん。髪が、こんなに。お薬の副作用だと思うの。怖くて、私……」
美智子の声は震えていた。すがりたかった。大丈夫だと言ってほしかった。 だが、和夫は歯ブラシにペーストを乗せながら、鏡越しに事務的な視線を投げただけだった。
「副作用なんだろ? だったら仕方ないじゃないか。医者が言った通りなんだから、いちいち騒いでも始まらないだろ。髪なんてまた生えてくるよ。それより、俺のYシャツ、アイロン当たってないんだけど」
「……ごめんなさい。昨日は、動悸がひどくて、座っているのも、やっとで」
「また動悸か。薬飲んでるんだから、少しは楽になってるはずだろ? 気持ちで負けてるんだよ、お前は。病気だからって、家事のすべてを放棄していい理由にはならないだろ」
和夫の言葉は、正論という名の鈍器だった。 彼は知らない。美智子の脳内で今、「死んでしまいたい」という衝動と「生きていなければ」という義務が、凄まじい火花を散らして衝突していることを。不定愁訴という、名付けようのない地獄が、全身の神経を逆なでしていることを。
「……そうね。仕方ないわね。お薬の、せいだものね」
美智子は、自分の声を遠くで聞いているような感覚に陥った。 和夫は、美智子の「病気」を理解したつもりでいる。だが、彼が理解したのは「診断名」であって、その診断名の下で喘いでいる「美智子という一人の女性」の痛みではないのだ。彼にとって、美智子は修理の必要な家電製品と同じだった。部品(ホルモン)を交換し、設定(投薬)を変えれば、元通り動くはずだと思い込んでいる。
和夫が仕事に出た後、美智子は洗面所の床に膝をつき、自分の髪の毛を一本ずつ拾い集めた。 ボロ雑巾。 前日に彼が放った言葉が、髪の毛の束と重なる。
(私は、ただのシステムの一部なのね。動かなくなれば修理され、見た目が変われば疎まれる。……私の中にあるこの暗闇は、誰にも見えない)
お風呂に入りたい。けれど、抜けていく髪を見るのが怖くて、シャワーを浴びる気力が湧かない。 美智子はリビングのソファに倒れ込み、天井を見上げた。 窓の外では、板橋を走る電車の音が、ゴトゴトと規則正しく響いている。 あの中には、仕事に行き、誰かと笑い、夕食の献立を楽しみにしている「普通の人々」が乗っている。
自分だけが、別の時間軸に放り出されたようだった。 強制的な閉経、奪われる髪、止まらない動悸。 「……女であることを、呪いたい」
独り言が、冷え切ったリビングに空虚に響く。 救いなんて、どこにもなかった。 耳の奥で、あのビートが以前より速く、凶暴に鳴り響く。 トントン、ツーツーツー、トントン。
それは、再開の合図などではない。 美智子を、さらなる深淵へと誘う、破滅のメロディだった。
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