第3話:婦人科の宣告 ――膨らむ腫瘍――

第3話:婦人科の宣告 ――膨らむ腫瘍――


板橋の商店街を抜ける風は、冬の鋭さを増している。  美智子は、数歩歩くたびに立ち止まり、激しい動悸をやり過ごした。  婦人科の入り口にある自動ドアが開いた瞬間、温かな空気と共に漂ってきたのは、淡い石鹸の匂いと、どこか浮き足立った生命の気配だった。


 待合室のソファには、ふっくらとしたお腹を愛おしげに撫でる若い女性や、エコー写真を嬉しそうに眺める夫婦が座っている。  その光景は、今の美智子にとっては異世界の断片だった。一週間洗っていない髪、鉄の匂いを隠すための厚着、腰に巻いたビニールが歩くたびに小さく「カサ……」と鳴る恐怖。


(私は、何を産もうとしているんだろう。このお腹の中で、私を食い荒らしている塊を、確認しに来ただけなのに)


 名前が呼ばれ、診察室に入る。  医師の指示に従い、重い体を引きずって内診台へ上がった。  冷たい金属の感触。カーテン越しに聞こえる、モニターの駆動音。 「……ああ、これは大きいね」  医師の呟きが、静かな部屋に響いた。


「美智子さん、モニター見えますか? これ、全部筋腫です。以前よりかなり育っていますね。子宮全体が、ラグビーボールくらいの大きさまで圧迫されています。内膜症も併発しているから、癒着も相当ひどいでしょう」


 カーテンを開け、戻ってきた医師は、画像を指差しながら淡々と言った。 「これだけの出血と痛み……よく耐えていましたね。ハッキリ言いますが、これでは日常生活は無理ですよ。今まで通りに動こうとする方が間違っています」


 その瞬間、美智子の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。  悲しいのではない。情けないのでもない。  ただ、圧倒的な「安堵」だった。


「……よかった」 「え?」  医師が不思議そうに眼鏡の奥の目を丸くする。


「私……私が、怠け者だから動けないんじゃ、なかったんですね。心が弱いから、お風呂に入れないんじゃ、なかったんですね。……病気だったんですね、私」


 声が震え、嗚咽が止まらない。  和夫に言われた「ボロ雑巾」という言葉。自分を責め続けた「不潔な大人」という蔑称。それらすべてが、物理的な腫瘍の重さによって否定された気がした。私は、壊れた機械で必死に走ろうとしていただけだったのだ。


 しかし、医師の次の言葉が、その束の間の救いを冷たく塗りつぶした。


「まずは、この出血を止めましょう。手術をするにしても、今の貧血状態では危険すぎます。偽閉経療法……薬で無理やり生理を止める治療を始めます」


 処方されたのは、ホルモンを抑制する小さな錠剤だった。 「副作用として、更年期障害のような症状が強く出ることがあります。ホットフラッシュ、不眠、あとは……うつ症状の増悪。慎重に様子を見ていきましょう」


 会計を済ませ、薬袋を握りしめて病院を出た。  心は少しだけ軽かった。原因が分かった。これで和夫にも説明できる。


 帰宅すると、和夫はリビングで缶ビールを空けていた。 「おー、おかえり。どうだったんだよ、病院」


 美智子は、震える手で診断名が書かれた紙を差し出した。 「……筋腫が、すごく大きくなってたの。ラグビーボールくらいって。お医者様が、日常生活は無理だって……。だから私、動けなかったのよ」


 和夫は紙を一瞥し、鼻で笑うように息を吐いた。 「ふーん。まあ、病名がついたなら良かったな。で、その薬を飲めば、明日からシャキシャキ動けるようになるのか?」


 美智子は息を呑んだ。 「……え? そんなすぐには。副作用も、あるみたいだし……」


「なんだよ。結局、また『動けない理由』が増えただけじゃないか。俺はさ、解決策が欲しかったんだよ。病気だからって免罪符を手に入れて、また一日中寝てるつもりか? 勘弁してくれよ、こっちは疲れてるんだ」


 和夫はテレビのリモコンを手に取り、画面を切り替えた。  美智子の胸の中にあった、小さな灯火が、音もなく消えた。


(……ああ、この人は。病気になっても、私が『機能』しないことを怒るのね)


 その夜、美智子は処方された最初の一錠を飲み込んだ。  それが、さらなる深淵への招待状だとは知らずに。


 数時間後。  眠りにつこうとした美智子の全身を、凄まじい熱波が襲った。  心臓が、耳元で太鼓を叩くように暴れ出す。喉が焼けつくように乾き、脳の奥で「死ね、死ね、死ね」というどす黒い声が反響し始めた。


 うつの波が、以前とは比べものにならない高さで、美智子の意識を飲み込んでいく。  お風呂に入れないどころではない。  呼吸の仕方が、分からなくなる。


「……たすけて」


 掠れた声は、和夫のいびきにかき消された。  腰のビニールが、寝返りを打つたびに「カサ……」と嘲笑うように鳴る。  体の中の腫瘍は、薬に抗うように、さらにズシリと重みを増した気がした。


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