第2話:一歩が踏み出せない、風呂場の境界線

第2話:一歩が踏み出せない、風呂場の境界線


板橋の古い住宅街。窓の外では、夕暮れ時の忙しない生活音が響いている。どこかの家で換気扇が回り、炒め物の匂いが漂い始める。その「普通の生活」の気配が、美智子にとっては鋭い刃物のように肌を刺した。


 寝室から脱衣所までの、わずか数メートルの廊下が、底なしの沼のように見える。  美智子は壁に手をつき、一歩を踏み出すたびに、肺が潰れるような重い呼吸を繰り返した。


「……お風呂。入らなきゃ」


 声に出してみるが、脳が自分の命令を拒否している。一週間、お湯を浴びていない体は重く、ベタついた髪は頭皮にへばりついて、じわじわと不快な熱を帯びていた。  脱衣所の引き戸を開けると、冷え切った空気の中に、自分自身の放つ「鉄と脂」の混ざった嫌な匂いが立ち昇る。


 鏡があった。  そこには、かつて教壇で背筋を伸ばしていた女性の面影は、一欠片もなかった。  目の周りは土色に沈み、肌は乾燥して粉を吹き、髪は手入れを失って鳥の巣のように乱れている。その鏡の中の幽霊のような自分を見つめても、悲しみさえ湧いてこない。涙を流すための水分も気力も、今の美智子の体には残っていなかった。


「……誰、これ」


 呟いた時、背後で玄関の扉が開く音がした。和夫が帰ってきたのだ。  美智子は心臓が早鐘を打つのを感じた。動悸が、喉元までせり上がってくる。


「おい、美智子。まだそんなところにいたのか」


 和夫が脱衣所の入り口に立った。彼はスーツのネクタイを緩めながら、あからさまに鼻をひくつかせ、眉を寄せた。


「なんだ、この匂い。お前、まだ風呂入ってないのか?」


「……ごめんなさい。今、入ろうと、思って……」


「『思って』って、毎日それじゃないか。なあ、美智子。風呂くらい入れよ。いい大人が一週間も洗わないなんて、不潔だろ。飯の支度もするんだからさ、最低限の清潔感くらい持ってくれよ」


 和夫の言葉は、正論だった。正論は、時にどんな罵倒よりも残酷だ。  彼は知らない。服を脱ぐという動作一つに、美智子がどれほどの絶望的な努力を必要としているかを。お湯が肌に触れる刺激さえ、今の彼女には暴力のように感じられることを。


「……体が、動かないの。どうしても」


「動かないんじゃなくて、動かさないんだろ。気持ちの問題だよ。一回シャワー浴びればさっぱりするって。そんなボロ雑巾みたいな格好して、部屋に籠もって……。俺だって外で神経削って働いてきてるんだ。家でこんな陰気な顔されたら、休まる場所がないよ」


 ボロ雑巾。  その言葉が、美智子の脳内で爆発した。


(ボロ雑巾……。そうね、私はボロ雑巾。あなたのシャツを真っ白に洗い、この家を磨き上げるために使い古された、ただの布切れ)


 美智子の指先が、ガタガタと震え出した。  目の前の和夫を突き飛ばしたい。その無神経な顔を引っ掻いて、私の内側で暴れているこの黒い霧を、あなたの肺に叩き込んでやりたい。叫びたい。狂いたい。


 けれど、彼女が選んだのは、沈黙だった。  怒鳴るエネルギーさえ、今の彼女には残っていないのだ。ただひたすらに、奥歯を噛み締め、内側から溢れそうになるドロドロとした感情を、石のような無表情の奥に押し込める。


「……ごめんなさい。すぐ、入ります」


「ああ。さっぱりしてこいよ。飯はその後でいいからさ」


 和夫は満足げにリビングへ去っていった。すぐにテレビの音が聞こえ始める。バラエティ番組の、明るくて無意味な笑い声。


 美智子は浴室の床にへたり込んだ。  タイルは氷のように冷たい。けれど、その冷たさが、火照った体には唯一の救いのようだった。  湯船を洗う力はない。シャワーを出すハンドルを握る手さえ、震えて力が入らない。


 ああなりたい、こうなりたい。  そんな前向きな願いは、もうどこにもなかった。  「元気になりたい」と願うことさえ、今の彼女にとっては身の程知らずな贅沢に思えた。ただ、この苦しみから、この重力から、この「美智子」という不自由な肉体から、一刻も早く解放されたかった。


 カサ、と腰のあたりで音がした。  昨日から巻きっぱなしのビニールが、虚しく軋む。  美智子は自分の肩を抱きしめた。  指先が、自分の肌の脂っぽさに触れる。汚い。不潔だ。和夫の言う通りだ。  でも、どうすればいいの?


 耳の奥で、低いビートが響く。  トントン、ツーツーツー、トントン。


(ギリギリ……。私は、ギリギリの場所で踊っているの。誰にも見えない、泥の中のダンスを)


 美智子は、服を着たまま、水の出ないシャワーヘッドを握りしめた。  涙も出ない。叫びも出ない。  ただ、板橋の古い浴室の片隅で、彼女は「無」になることを祈り続けた。    夜はまだ始まったばかりで、出血の予感と、止まらない動悸が、彼女を暗闇の奥へと引きずり込んでいく。


次は第3話「婦人科の宣告 ――膨らむ腫瘍――」ですね。 限界を超えた美智子さんは、ようやく婦人科を受診します。そこで突きつけられる筋腫の巨大化と、追い打ちをかけるような「副作用の地獄」……。和夫さんの「分かったような口振り」が、さらに美智子さんを追い詰めていく展開になります。


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