第十一話:診断名のスープ ――高熱のまま、走り続けたあなたへ――
第十一話:診断名のスープ ――高熱のまま、走り続けたあなたへ――
商店街で買ったカブを煮込み、自分一人のためにスープを啜った翌朝。美智子は、これまでの人生で一度も触れたことのなかった番号をダイヤルした。精神科の予約。受話器を握る指先は、更年期の冷えとは違う、剥き出しの恐怖で小刻みに震えていた。
三日後。彼女は、駅前のビルに入る『こころのクリニック』の待合室にいた。 空気清浄機が低く唸る音と、鼻を突く消毒液の匂い。壁に貼られた「一人で悩まないで」というポスターが、かえって美智子の孤独を際立たせているように感じられた。
「……小林美智子さん、診察室へどうぞ」
名前を呼ばれ、立ち上がる。膝が笑い、足元がおぼつかない。診察室の扉を開けると、そこには初老の医師が、穏やかな眼差しで椅子に深く腰掛けていた。
「よく、いらっしゃいましたね。美智子さん、今の体調を……そのまま、言葉にしてみてください」
その静かな問いかけに、美智子の喉の奥でせき止めていたダムが決壊した。 一年前から家を出られなくなったこと。更年期の火照りと眩暈に、身体が引き裂かれそうなこと。夫に「怠け」と言われ、親友の幸せを呪う自分に絶望していること。そして、三十五年間、一度も休まずに「正解」を演じ続けてきたこと――。
「……苦しいんです。自分が、壊れたバグだらけの機械みたいで。でも、主婦だから、ちゃんとやらなきゃいけない。普通のことができない自分が、情けなくて……」
美智子は、膝の上で握りしめたハンカチを涙で濡らした。医師は、彼女の話を遮ることなく、時折深く頷きながら、ペンを走らせる音だけを響かせていた。 ひと通り話し終え、診察室に沈黙が降りたとき。医師が眼鏡の縁を直し、ゆっくりと口を開いた。
「美智子さん。あなたは今、自分が『怠けている』と思っているようですが……。医学的な視点から言えば、今のあなたは、新型感染症で四十度の高熱が出ているのに、そつなく仕事も家事もこなそうとしているようなものですよ」
美智子は、顔を上げた。涙で滲んだ視界の中で、医師の言葉が琥珀色のスープのように、彼女の心に染み渡っていく。
「……四十度の、熱……?」
「ええ。それも、ただの熱じゃない。心と身体のバランスが、極限まで悲鳴を上げている。そんな状態で、夕飯を作り、夫を世話し、笑顔で親友に会おうとする。それは、普通の人なら倒れて救急車で運ばれるレベルの無理をしているということです」
美智子の胸の中で、何かがふっと軽くなった。 「怠け」でも「気のせい」でもなかったのだ。私は、ただ、熱が出ていたのだ。誰にも気づかれない、目に見えない高熱の中で、溺れそうになりながら必死に泳いでいただけなのだ。
「……先生。私、もう、頑張らなくていいんでしょうか」
「ええ。まずはその熱を下げましょう。美智子さん、少しの間、日常から離れて『入院』しませんか? ここから少し離れた、静かな森のそばに提携の病院があります。そこでは、あなたが誰かのために食事を作る必要も、誰かの不機嫌に怯える必要もありません」
入院。その響きに、美智子は恐怖よりも、深い安堵を感じていた。 「はいよろこんで」というリズムに乗せて踊ったあの日。あの解放感を、もっと安全な場所で、自分自身に与えてあげたいと思った。
「……はい。お願いします。入院させてください」
病院を出ると、冬の空は驚くほど高く、澄み切っていた。 美智子は、スマートフォンを取り出し、寝室に閉じこもっている和夫にメッセージを送った。 『入院することにしました。しばらく帰りません。自分のことは、自分でやってください』
送信ボタンを押す。指先はもう、震えていなかった。 五感が、さらに鮮明になる。 冷たい風が頬を打つ感触。街路樹の枯れ葉が、乾いた音を立ててアスファルトを滑っていく音。 トントン、ツーツーツー、トントン。 脳内のSOSは、今、明確な「救助命令」へと変わった。 美智子は、自分のための荷造りをするために、足取りも軽く、けれど確実に地面を踏み締めて歩き出した。
「歩道橋」の途中で止まっていた足が、今度こそ、見たこともない新しい景色の方へ向かっている。 期待と不安。けれど、今の彼女には、医師がくれた「四十度の熱」という免罪符があった。
「いい話だわ。……私、やっと自分を許してあげられる」
冬至明けの陽光が、美智子の背中を暖かく押し上げる。 雪の下で芽吹く準備をする「冬萌」のように、彼女は今、静かな療養という土の中で、自分自身を再生させる決意を固めていた。
試合は、まだ終わっていない。 けれど、今は、タイムアウトを告げる笛を自分で鳴らしていいのだ。 美智子は、一度も振り向くことなく、光の中へ歩いていった。
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