第十話:冬萌(ふゆもえ) ――新しい扉――
第十話:冬萌(ふゆもえ) ――新しい扉――
十二月二十四日。冬至の翌々日の朝は、昨夜の狂騒が嘘のように静まり返っていた。 美智子は、窓から差し込む冬の薄い光の中で目を覚ました。更年期の倦怠感は相変わらず背中に張り付いているが、昨夜、声を枯らして歌い、壊れたように踊った後の身体は、不思議と「自分のもの」だという確信に満ちていた。
リビングに降りると、寝室から出てきた和夫と鉢合わせた。和夫は美智子の顔を見るなり、気まずそうに視線を逸らし、ボソリと呟いた。 「……飯、どうするんだ。いつまであんな紙、貼っておくつもりだよ」
昨日までの美智子なら、「ごめんなさい、すぐ作るわ」と縮こまっていただろう。けれど、今の彼女は、昨夜ひっくり返したコップの「空っぽさ」を誇りに思っていた。
「和夫さん、冷蔵庫にあるもので自分で作って。私は今、自分のために忙しいの」
「なんだと? お前、本当に……」
「怒鳴っても無駄よ。私の耳にはもう、あなたの不機嫌な声よりも、もっと大切なリズムが鳴っているんだから」
美智子は和夫を通り過ぎ、洗面所へ向かった。鏡に映る自分を見る。目の下には隈があり、肌は更年期の乾燥で粉を吹いている。バグだらけ。でも、これが七十一歳の私に繋がっていく、今の私の姿なのだ。
彼女はクローゼットの奥から、一年間埃を被っていた、少し厚手のウールのコートを取り出した。袖を通すと、防虫剤のツンとした匂いと、閉じ込めていた「外の世界」の記憶がふわりと舞った。
「……さあ、どうする? 美智子」
自分に問いかける。 乃木坂の歌詞が、静かに胸の奥でリフレインした。 ――このまま渡ろう。
玄関に立ち、重い金属の鍵を握る。 指先に伝わる冬の冷たさ。鍵が回るカチリという乾いた音。それが、新しい人生のスタートを告げる号砲のように聞こえた。 ゆっくりと扉を開ける。
「……っ」
溢れてきたのは、鋭い冬の空気だった。 肺の奥まで凍てつくような冷気。けれど、それは淀んだ部屋の空気とは違う、鮮烈な「生」の匂いがした。 一歩、足を踏み出す。 コンクリートを叩く自分の靴の音。 遠くで子供がはしゃぐ声。 どこかの家から漂う、洗濯物の柔軟剤の香り。 五感が、冬眠から目覚めた動物のように一斉に震えだす。
美智子は歩き出した。 目指すのは、駅前のスーパーではない。あえて少し遠い、商店街の八百屋だ。 歩道橋の前に立つ。 昨日、陽子への「NO」を置き去りにしたあの場所。 美智子は今度は足を止めなかった。一段ずつ、自分の膝の痛みを感じながら、噛み締めるように昇っていく。 「……いい景色だわ。本当に」
歩道橋の頂上から見下ろす街は、クリスマス前夜の浮き足立った熱に浮かされていた。 渋滞する車列、急ぐ人々。誰もが自分の人生という、答えのない道を歩いている。 美智子は空を見上げた。厚い雲の切れ間から、冬至を過ぎてわずかに力を増した陽光が、彼女の火照った頬を優しく撫でた。
八百屋に辿り着くと、威勢のいい声が飛んできた。 「いらっしゃい! 奥さん、今日はいいカブが入ってるよ!」
「……カブを、二つ。それから、生姜をください。とびきり辛い、立派なやつを」
美智子は、自分の声がしっかりと地面を捉えているのを感じた。 和夫の好物でもなく、陽子に勧めるものでもない。 ただ、昨夜読んだあの『聖者のスープ』のような、琥珀色の、自分を内側から温めるための材料。
カブのずっしりとした重みを抱えて、帰り道を歩く。 不意に、スマートフォンの通知が鳴った。 恐る恐る画面を開くと、そこには一通の返信が届いていた。 あの物語の作者――文子からだった。 『見つけてくれて、ありがとう。あなたのコップに、私のスープが届いたのなら、私はまた次の一話を書くことができます。……冬萌は、もう始まっていますね』
美智子の目から、一雫の涙が溢れた。 PVが「0」でも、世界に無視されているように感じても。 こうして、一人のスープが、誰かの凍えた指先を温めることがある。 その奇跡こそが、人生の積み立ての本当の利息なのだ。
「……はい、よろこんで。私も、書き続けるわ。私の人生を」
美智子は、玄関の扉を再び開けた。 家の中には、まだ和夫の沈黙が居座っている。 けれど、今の美智子はもう、その沈黙を恐れてはいない。 キッチンに立ち、買ってきたばかりのカブを洗う。 冷たい水に触れる感覚が、心地よい。 まな板の上で、包丁が規則正しく踊り出す。 トントン、ツーツーツー、トントン。 それは、春を待つ雪の下で、じっと耐えながら芽吹く準備をする「冬萌」の鼓動。 完璧ではない。バグだらけだ。 けれど、これほどまでに愛おしい、私の新しい一行。
「……試合は、まだ終わっていないわ」
鍋から、琥珀色の湯気が立ち上がる。 美智子は、窓を少しだけ開けた。 冷たい冬の風が、部屋の中の停滞を吹き飛ばしていく。 その風に乗って、どこか遠くから、新しい季節の足音が聞こえた気がした。 ――孤独なコップをひっくり返して。 彼女は今、自分を救うための「聖者のスープ」を、世界で一番贅沢な熱さで煮込んでいる。
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