ここから、始めましょう

エピローグ


――ここから、始めましょう――


 病院の廊下は、午後の光で満ちていた。

 冬の陽射しはまだ弱いが、ガラス越しに射し込む光は、確かに「冷たさ」よりも「清潔さ」を連れてくる。消毒液の匂い。ワックスをかけた床の、少し甘い匂い。遠くで鳴るナースコールの電子音。

 美智子は、病室のベッドに腰かけ、膝の上で両手を重ねていた。


 扉の向こうで、低い声がする。

 医師の声と、もう一つ――和夫の声。


「……つまり、奥さんは“怠けていた”わけではありません」


 医師の声は穏やかで、断定的だった。


「長期間、強いストレスと更年期症状が重なり、心身が限界を超えていました。例えるなら……四十度の高熱が一年近く続いていたような状態です」


 沈黙。

 その沈黙の質が、これまでと違うことを、美智子ははっきりと感じ取った。


「……四十度……?」


 和夫の声が、かすれる。


「はい。普通なら、仕事も家事もできません。意識を保つだけで精一杯です。それでも奥さんは、日常を維持しようとしてきた。これは“弱さ”ではありません。“限界まで頑張り続けた結果”です」


 再び、沈黙。

 美智子の胸が、静かに上下する。

 心臓が、変な速さで打っていない。呼吸が、ちゃんと深い。


 ドアがノックされ、ゆっくりと開いた。

 和夫が立っていた。


 いつもより背中が丸い。

 コートを着たまま、どこか所在なさげに、病室の床を見ている。


「……美智子」


 その呼び方に、彼自身が戸惑っているのが分かった。

 名前で呼ぶこと自体、久しぶりなのだ。


「……先生の話、聞いた」


 和夫は一歩、病室に足を踏み入れた。

 消毒液の匂いに、少し顔をしかめる。


「俺……正直、驚いた」


 美智子は黙っていた。

 促さない。助け船も出さない。

 ただ、聞く。


「お前が……そんな状態だったなんて」


 和夫は、言葉を探している。

 いつもなら、ここで苛立ちに変わるところだ。

 だが今は違う。


「俺さ……“検査で異常なし”って聞いて……それで……」


 和夫は、喉を鳴らした。


「……気のせいだって、思った」


 美智子の胸の奥で、何かが小さく音を立てた。

 割れる音ではない。

 氷が、ゆっくり溶ける音だ。


「……無理解だった」


 和夫は、はっきり言った。


「怠けてるとか、甘えてるとか……そんな言葉、簡単に使って……」


 拳が、わずかに震えている。


「……俺、怖かったんだと思う。分からないものが」


 美智子は、初めて口を開いた。


「……うん」


 それだけだった。

 責めない。許すとも言わない。

 ただ、事実として受け取る。


「……先生が言ってた。“高熱のまま走らされていた”って」


 和夫は、ベッドの端に、そっと腰を下ろした。


「……そんなの、倒れるに決まってる」


 和夫の声が、少し掠れた。


「……ごめん」


 その言葉は、軽くなかった。

 言い慣れていない分、ぎこちなく、でも確かだった。


 美智子は、窓の外に目を向けた。

 病院の庭。冬枯れの木。

 枝の先に、小さな芽がついている。


「……和夫さん」


 ゆっくりと、言葉を選ぶ。


「私はね、“分かってもらうため”に、ここにいるんじゃないの」


 和夫が顔を上げる。


「……体を、直すため」


 美智子は、自分の胸に手を当てた。


「それだけ」


 しばらくの沈黙。

 病室に、午後の光が満ちていく。


「……急がなくていいんだな」


 和夫が、ぽつりと言った。


「……飯も、洗濯も……全部」


「うん」


「……ここから、始めればいいんだな」


 その言葉に、美智子は小さく息を吸った。

 胸の奥が、じんわりと温かい。


「……そう」


 それだけで、十分だった。


 看護師が顔を出し、「面会時間、もう少し大丈夫ですよ」と微笑む。

 その声が、現実をやさしく繋ぎとめる。


 和夫は立ち上がり、少し照れたように言った。


「……ゆっくり、直そう」


 美智子は、うなずいた。


「……ゆっくりでいい」


 窓の外、冬の空は高く澄んでいる。

 冷たいけれど、確かに光がある。


 試合は、まだ終わっていない。

 でも今は、再開の笛が鳴ったところだ。


 ここから、始めましょう。


文子さん、ありがとうございます。 このエピローグこそが、文子さんの紡いできた物語の、最も美しく、そして切実な「冬萌(ふゆもえ)」の瞬間ですね。


「分かってもらうためじゃない、体を治すため」。 その毅然とした言葉に、35話、いえ、35年という月日を経て、ようやく自分自身の手元に人生を取り戻した女性の「気高さ」を感じます。


最後に、これまでの物語を締めくくる一節を添えさせていただきます。


終幕:新しい一行 ――光の射す場所へ――

 和夫が病室を去った後、美智子は再び一人になった。  夕刻の光が、白い壁に長く伸びている。


 彼女は、サイドテーブルに置いたスマートフォンを手に取った。  画面を点けると、そこにはまだ、あの『聖者のスープ』のページが開かれたままだった。


 PVの数字は、相変わらず「0」のままだ。  けれど、美智子はもう、その数字を孤独だとは思わなかった。  この物語を書いた「文子」という人は、きっと今もどこかで、自分と同じように窓の外の光を見つめ、震える指で次の一行を掘り起こしている。  その確信が、美智子の胸を琥珀色のスープのように温めた。


「……ここから、始めましょう」


 美智子は、コメント欄に指を走らせた。  今度は、SOSではない。   『冬至の後の光は、とても静かです。私も今、自分のためのスープを煮込む準備を始めました。素敵な物語をありがとう。……私たちの試合は、まだ終わっていませんね』


 送信ボタンを押す。  微かな振動が指先に伝わり、言葉がネットの海へと溶けていく。    五感が研ぎ澄まされる。  遠くで響く救急車のサイレン、廊下を歩くナースシューズの規則正しい音、そして、自分の内側で静かに、けれど力強く刻まれる新しいビート。    トントン、ツーツーツー、トントン。    それは、世界で一番贅沢な、自分自身を愛するためのリズム。  美智子は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。    雪の下で、芽はもう、春の匂いを知っている。    

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