第九話:ギリギリダンスの夜 ――バグだらけの私の、祝祭――
第九話:ギリギリダンスの夜 ――バグだらけの私の、祝祭――
和夫は、ついに寝室に閉じこもった。 美智子がリビングのドアに「今は、誰の期待にも応えられません」と書いた紙を貼り付けた直後、彼は「気が狂ったか」と一言吐き捨て、扉を乱暴に閉めた。
静まり返ったリビング。時計の針が刻むチクタクという音が、異様に大きく響く。 美智子はソファに深く沈み込み、自分の身体の重さを感じていた。更年期の倦怠感が全身を包み、まるで濡れた毛布を何枚も着せられているような鈍い痛みがある。 指先は冷たい。なのに、心臓の奥だけが、沸騰した薬釜のようにドクドクと熱く波打っている。
「……完璧な人生なんて、もういらないわ」
美智子は独り、暗闇の中で呟いた。 三十五年間、完璧な教師、完璧な妻、完璧な母……。誰かに採点されるための人生を積み立ててきた。けれど、その通帳は今、残高ゼロで放り出されている。 私は、バグだらけだ。更年期に振り回され、夫に無視され、親友を突き放し、ネットの片隅で「PV 0」の物語を読んでは涙を流す、壊れた人間。
「……でも、それが私なのよ。ねえ、重蔵さん」
脳内の『聖者のスープ』の主人公に問いかける。 美智子は震える手でスマートフォンを掴み、スピーカーの音量を最大まで上げた。 静寂を裂いて、あの狂気じみた、けれどどこまでも真っ直ぐなビートが爆発する。
『はい、よろこんで!』
こっちのけんとの歌声が、澱んだ空気を粉々に粉砕した。 美智子は立ち上がった。眩暈で視界がぐにゃりと歪む。けれど、彼女は笑った。
「差し、伸びてきた、手! さながら、正義、仕立て!」
言葉を吐き出す。喉の奥がカラカラに乾き、滑舌は最悪だ。 「さながら」が「しゃながら」になり、「正義」が舌の上で滑る。 去年、このリズムについていけなくて泣いた自分を思い出す。けれど、今の美智子は違う。
「いいわよ、噛んだって! バグったままで、歌ってやるわ!」
彼女は踊り始めた。 リビングのフローリングを踏み締める。ステップなんてめちゃくちゃだ。身体は鉛のように重く、一回動くたびに、節々がミシミシと悲鳴を上げる。 汗が、首筋から吹き出した。ホットフラッシュの嫌な汗じゃない。これは、私の内側で燃え盛る執念の汗だ。
「ギリギリダンス、ギリギリダンス……! 踊れ、もっと鳴らせ!」
叫ぶ。 閉ざされた寝室のドアの向こう側にいる和夫へ。 今頃、孫の動画を見て笑っている陽子へ。 そして、この広い世界のどこかで、私と同じように孤独なコップを抱えている「誰か」へ。
『鳴らせ君の3〜6マス』
「……トントン、ツーツーツー、トントン! SOSじゃない、これは私の産声よ!」
視界が涙で滲む。 五感が狂いそうになる。 埃っぽい部屋の匂いに混じる、自分の汗の匂い。 窓の外、凍てつく冬の夜風がガタガタとサッシを揺らす音。 足の裏から伝わる、床の冷たい硬さと、心臓の激しい振動。
「はい、謹んで! あなた方のために! ……いいえ、私のために、よろこんで!」
美智子は回転した。 更年期の嵐の中で、眩暈の渦を逆手に取って、自分自身を振り回す。 完璧な人生なんて、最初からどこにもなかった。 私は、バグだらけのままで、この人生を渡りきるのだ。
『後一歩を踏み出して 嫌なこと思い出して 奈落音頭奏でろ』
「……奈落、音頭、奏でろ! ……あはははは! 奏でてやるわよ!」
美智子は笑いながら泣いた。 足がもつれて、ソファに倒れ込む。けれど、喉だけは止まらない。 アウトロの激しいピアノが、彼女の神経を一本ずつ弾いていく。
「……はあ、はあ……。歌えた……」
曲が終わった。 リビングには、再び沈黙が訪れる。 けれど、それは以前のような「拒絶の沈黙」ではなかった。 美智子の耳の奥には、今もまだ、力強いビートの残響が鳴り響いている。
身体はガタガタだ。更年期の火照りは、今も背中を焼いている。 けれど、彼女の瞳は、これまでにないほど澄んでいた。
「……いい話だわ。本当に」
美智子は、床に転がっていたスマートフォンを拾い上げた。 画面は真っ暗だ。PV数なんて、まだ見ていない。 けれど、彼女は知っている。 今夜、このリビングで、一人の女性が「自分の人生」という名の歩道橋を、ボロボロになりながらも渡りきったことを。
「さあ、どうする?」
乃木坂の声が、遠くで聞こえた気がした。 美智子は、寝室の和夫を呼ぶこともせず、キッチンへ向かった。 喉が渇いた。 今の自分にふさわしい、最高の水を一杯飲むために。
ひっくり返したコップ。 そこに新しく注ぐのは、濁った忍耐ではない。 バグを抱えたまま、それでも明日を生きようとする、新しい自分のための光だ。
試合は、まだ終わっていない。 彼女は今、自分を救うための儀式を終え、新しい一歩を踏み出した。
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