第八話:陽子への「NO」 ――歩道橋の先で、孤独を綴る――

第八話:陽子への「NO」 ――歩道橋の先で、孤独を綴る――


 駅前のカフェ、『シャノワール』の店内は、クリスマスの喧騒を前にした華やかさと、暖房で膨らんだ甘ったるいパンの匂いに満ちていた。  美智子は、窓際の席で陽子と向き合っていた。歩道橋を渡りきった達成感は、陽子がバッグから取り出した最新型のスマートフォン――そこに映し出された「孫の動画」を見た瞬間に、急速に萎(な)えていった。


「見て美智子、この子ったら! 離乳食を一生懸命食べてるの。可愛いでしょう? もう、見てるだけで疲れが吹き飛んじゃう」


 陽子の声は、高く、弾んでいる。美智子の瞳には、その動画の眩しさが網膜を刺す針のように感じられた。更年期の火照りが、首筋をじわじわと這い上がってくる。


「……可愛いわね。元気そうで、何よりだわ」


 美智子は、自分の喉がカサカサに乾いていることに気づいた。運ばれてきたカフェオレの、分厚い泡が不快に唇へ残る。  陽子のトークは止まらない。 「美智子のところの息子さんは? まだお嫁さん探し中? あら、でも今は無理に結婚しなくてもいい時代だしね。あ、そうそう、来月の女子会の幹事、美智子にお願いしてもいいかな? 私、孫の世話で忙しくて……」


 ――幹事?  この一年、私がどんな思いで家の中に引きこもり、自分の輪郭が消えていく恐怖と戦ってきたか、陽子は一度も訊いてはくれなかった。彼女にとって美智子は、「自分の幸せを確認するための、便利な相槌係」に過ぎないのだ。


 その時、バッグの中でスマートフォンが震えた。和夫からだ。 『飯、冷蔵庫に何もないぞ。どこにいるんだ。さっさと帰ってこい』


 和夫の短いテキスト。陽子の止まらない自慢話。  二人の声が、美智子の中で激しく混ざり合い、巨大なノイズとなって耳を劈(つんざ)いた。  美智子の五感が、臨界点に達する。   「……陽子さん。私、女子会の幹事はできない」


 陽子の笑顔が、ピタリと止まった。 「え? どうして? 何か予定でもあるの?」


「予定じゃないの。……私、今、人の幸せを喜べる状態じゃないのよ」


 カフェの喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。美智子の声は低く、けれど鋭くテーブルの上に置かれた。 「美智子、何言ってるの……? 私たちの仲じゃない。ちょっと疲れてるだけよ、そんな怖い顔して」


「怖くないわ。これが私の本当の顔なの。一年前から、ずっとこの顔だったのに、あなたは一度も見てくれなかった」


 美智子はバッグから千円札を取り出し、伝票の上に叩きつけた。和夫からの電話がまた鳴る。美智子はその電源を、迷わず切った。


「陽子さん、ごめんなさい。……でも、さようなら。今はあなたの光が、私には毒なの」


 絶句する陽子を置き去りにして、美智子は店を飛び出した。  冷たい冬の風が、火照った頬を叩く。その冷たさが、驚くほど心地よかった。    帰り道、再びあの歩道橋を昇る。  階段の途中で足が止まる。  「本当に渡っていいのかな」という乃木坂のメロディが、木枯らしに乗って空へ溶けていく。    美智子は、手すりに凭(もた)れ、ノートを破った一枚の紙を取り出した。バッグにはいつも、何かを書き留めるためのペンが入っている。  彼女は、乱暴な筆跡で言葉を刻み始めた。それは誰かに宛てた手紙ではなく、自分と世界との間に引く、境界線の儀式だった。


『今は、誰の期待にも応えられません。和夫さん、あなたの食事も。陽子さん、あなたの孫の話も。私は私のコップが空っぽなのを、ようやく認めたところなんです。……自分を救うためのスープを作るために、私はしばらく、すべての繋がりを整理します』


 「期待と不安に挟まれながら、さあどうする?」  美智子は、その紙を四つ折りにし、駅の伝言板――もう誰も使わなくなった古い掲示板の端に、画鋲で止めた。あるいは、自分の部屋のドアに貼るつもりだったのかもしれない。けれど、この「外の世界」に本音を置いていくことが、彼女にとっての「渡りきる」ということだった。


「……いい話だわ。本当に」


 美智子は、空を見上げた。  冬至明けの空は、いつの間にか厚い雲が割れ、透き通った瑠璃色(るりいろ)を覗かせていた。    トントン、ツーツーツー、トントン。    脳内で鳴り響くSOS。それはもう、助けを求める叫びではなく、自分の存在を世界に刻むためのビートだった。  和夫への「NO」。陽子への「NO」。  それは、自分自身への「YES」を積み立てるための、第一歩。


「さあ、どうする? ……このまま渡ろう。私の、新しい人生の岸へ」


 美智子は、もう振り向かなかった。  階段を一段ずつ、自分の足で踏み締めて降りていく。  家へ帰れば、和夫が不機嫌な顔で待っているだろう。  けれど、今の美智子には、昨日よりもうんと強い、自分のために煮込んだスープの記憶がある。


 五感が、かつてないほど鮮明だった。  排気ガスの匂いの中に混じる、どこかの家から漂う夕餉(ゆうげ)の匂い。  冬の枯れ木の、硬く湿った黒い幹の質感。  そして、自分の胸の奥で、静かに、けれど熱く燃え始めた「冬萌」の種火。


 試合は、まだ終わっていない。  彼女は今、自分の人生という歩道橋を、自らの意志で渡りきったのだ。


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