第六話:聖者のスープ(異変) ――画面の向こうの、琥珀色の救い――
第六話:聖者のスープ(異変) ――画面の向こうの、琥珀色の救い――
和夫との衝突から、三日が過ぎた。 あの日、リビングで叫び、踊り狂った熱量は、今の美智子にはもう残っていない。寝室に閉じこもった和夫とは、必要最低限の言葉も交わさない冷戦状態が続いていた。
冬至を過ぎたとはいえ、陽光は依然として弱々しく、部屋の隅々には湿った影がこびりついている。美智子は薄暗い自室で、毛布にくるまりながらスマートフォンの青白い光を見つめていた。更年期の倦怠感が全身を包み込み、指一本動かすのさえ、深い泥の中を泳ぐような重苦しさがある。
「……結局、私はまたここに居る」
溜息をつくと、埃っぽい部屋の匂いが鼻を突いた。ずっと窓を開けていない。陽子からのLINE通知が画面上部で踊ったが、今の美智子には、それを開く指の力さえ残っていなかった。
逃げるように、指先が小説投稿サイトを彷徨う。ランキングにも載っていない、広告の隙間に埋もれるような場所で、そのタイトルが美智子の目に飛び込んできた。
『聖者のスープと、冬萌(ふゆもえ)の街 ――孤独なコップをひっくり返して――』
「……聖者の、スープ?」
渇いた唇が、無意識にその言葉をなぞった。 吸い寄せられるように画面をタップする。ページをめくるたび、スマートフォンの熱が指先に伝わってくる。
そこには、一人の「重蔵」という男が描かれていた。雪の降る街で、銀色の鍋を抱え、孤独な人々に熱いスープを配り歩く男。文章から、立ち上る湯気の匂いがしてくるようだった。根菜をじっくり煮込んだ土の香りと、ほんの少しの塩気。そして、それを受け取る人々の、凍てついた心が解ける微かな音。
『いいか、あんたの孤独は、あんただけのものじゃねえ』 画面の中の重蔵が、乱暴に、けれど温かく語りかけてくる。 『コップに溜まった濁った水を大事そうに抱えてるんじゃねえよ。そんなもんは、さっさとひっくり返しちまえ。空っぽになったところにしか、熱いスープは注げねえんだからな』
美智子の指先が、ぴくりと震えた。 和夫にぶちまけたあの夜の水。ひっくり返ったコップ。あれは、醜い発狂だと思っていた。けれど、この物語の作者は、それを「必要なことだ」と肯定している。
「……孤独なコップを、ひっくり返す」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられた。 三十五年間、美智子が積み立ててきたのは、良妻賢母という名の「濁った水」だったのではないか。それを一滴もこぼさぬよう、唇を噛み締めて耐えてきた。けれど、その水はもう腐り、自分を内側から蝕んでいた。
美智子は、作者の名前を確認した。 知らない名前だ。けれど、この筆致には、自分と同じような「ままならない身体」と闘い、それでも言葉を紡ごうとする執念のような熱が宿っている。
「……この人、知ってるわ。会ったこともないけれど、私の痛みを、知ってる」
不意に、部屋のドアがノックもなしに開いた。和夫だ。 「おい、いつまで寝てるんだよ。洗濯物、溜まってんだけど」
和夫の声が、琥珀色の物語に浸っていた美智子の意識を、無慈悲に現実に引き戻す。和夫は部屋の淀んだ空気に顔を顰め、鼻を鳴らした。 「またネットか。そんなもん見てる暇があったら、少しは身体動かせよ。陽子さんは今日もウォーキングに出たってインスタに上げてたぞ」
美智子は、スマートフォンを胸元に抱きしめた。 「……陽子さんの話は、しないで。今は、この物語を読んでいるの」
「物語? 腹の足しにもならねえだろ。お前、本当に現実逃避が上手くなったな」
和夫の言葉が、冷たい氷の礫となって美智子に降り注ぐ。 いつもなら、ここで「ごめんなさい」と謝っていただろう。けれど、今、美智子の指先には、画面から移ったばかりの「熱」が残っていた。
「……和夫さん。これは現実逃避じゃないわ」
「はあ?」
「これは、私が息をするための酸素なの。……あなたにはわからないでしょうね。スープの匂いも、冬萌の光も。……でも、私はこのコップを、もう二度と元には戻さないわ」
「わけわかんねえこと言ってんじゃねえよ!」 和夫は吐き捨てるように言うと、乱暴にドアを閉めて去っていった。
静寂が戻る。 美智子はゆっくりと起き上がった。身体の節々が痛み、更年期の火照りが再び背中を這い上がってくる。けれど、彼女はふらつく足取りでキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開ける。しなびた大根と、少し傷んだ人参。 美智子は包丁を握った。トントン、とまな板を叩く音が、規則正しく響く。 トントン、ツーツーツー、トントン。 それは、物語の中の重蔵が刻むリズムであり、こっちのけんとのビートであり、美智子の新しい鼓動だった。
「……ひっくり返したコップは、もう空っぽよ」
鍋に火をかける。水が沸騰し、野菜の甘い匂いが立ち込め始める。 五感が、死んだ世界を少しずつ彩っていく。 湯気の向こうに、あの作者が描いた『冬萌の街』が、幻のように揺れている気がした。
美智子は、スマートフォンのコメント欄を開いた。 閲覧数、0。 けれど、美智子はそこに、震える指で初めての言葉を打ち込んだ。
『いい話なのにね。……でも、私は見つけました。このスープを、飲ませてくれてありがとう』
送信ボタンを押した瞬間。 美智子の頬を、一筋の涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、雪の下で凍えていた芽が、初めて陽光に触れた時の露のようだった。
部屋の温度は変わらない。更年期の苦しさも、和夫との断絶も、何一つ解決していない。 けれど、鍋の中で踊る野菜の匂いを嗅ぎながら、美智子は確信していた。
試合は、まだ終わっていない。 今、私の喉が、スープを欲しがっているから。
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