第七話:更年期という嵐の中で ――自分を救うための火、孤独なスープ――
第七話:更年期という嵐の中で ――自分を救うための火、孤独なスープ――
世界が、ぐにゃりと歪んだ。 午後三時。美智子は、洗濯物を畳もうとして床に手をついた。視界が激しく回転し、天井と床が入れ替わるような感覚に襲われる。耳の奥ではキーンという高音の耳鳴りが鳴り止まず、胃の底からせり上がるような吐き気が、彼女をその場に組み伏せた。
「……っ、またなの……?」
更年期の嵐は、前触れもなくやってくる。首筋から背中にかけて、蛇が這うような粘りつく汗が吹き出し、それなのに足の指先は氷のように感覚がない。顔だけが、焚き火に晒されているかのように熱い。 美智子は這うようにしてベッドに辿り着き、湿った布団に顔を埋めた。
部屋には、カーテンの隙間から差し込む冬の冷ややかな光と、古い絨毯の埃っぽい匂いが漂っている。かつての美智子なら、この埃さえも許せず、身体を鞭打って掃除機を回していただろう。だが今は、指一本を動かすことさえ、巨大な鉛の山を動かすような絶望感に等しかった。
ガチャン、という乱暴な音がリビングで響いた。 和夫が仕事から帰ってきたのだ。彼は寝室のドアを少しだけ開け、暗闇の中で丸まっている美智子を一瞥した。
「おい、また寝てるのかよ。夕飯はどうすんだ」
その声には、心配の欠片もなかった。あるのは、自分の空腹を阻害されたことへの苛立ちだけだ。
「……ごめん、なさい。眩暈がひどくて……立てないの。……何か、自分で、食べて……」
美智子は枕に顔を押し付けたまま、掠れた声で答えた。和夫は大きな溜息をつくと、わざとらしく壁を叩いた。
「チッ、いつもこれだ。病気、病気って……。俺はな、お前のその『被害者ヅラ』に、もう限界なんだよ。陽子の旦那が羨ましいよ、あそこは毎日、孫と笑って飯食ってるってのに」
「……っ」
美智子は唇を噛み締めた。その言葉は、鋭い針となって彼女の胸に突き刺さる。和夫の足音が遠ざかり、再び玄関のドアが閉まる音がした。 「勝手に食ってくるわ。お前の分なんて、知らねえからな」 吐き捨てられた言葉の残響が、冷え切った部屋にいつまでも沈殿していた。
静寂。 和夫がいなくなった家の中は、墓場のように静かだった。 美智子は暗闇の中で、独り、身体の火照りと闘い続けた。 「……いい話なのにね。……私の人生は、どこでバグが起きたのかしら」
涙が枕を濡らす。三十五年間、良き妻として、母として、誰かのために尽くすことが「正解」だと信じて積み立ててきた日々。だが、その結果がこの「0」の夜だ。誰も私のためにスープを作ってくれない。誰も私の孤独に触れてはくれない。
その時。脳裏に、あの画面の文字が浮かんだ。 『聖者のスープと、冬萌の街』。 ――空っぽになったところにしか、熱いスープは注げねえんだからな。 美智子は、震える手でベッドの縁を掴んだ。 そうだ。和夫はもういない。和夫に認められる必要も、陽子に合わせる必要もない。今の私は、空っぽだ。なら、ここには何だって注げるはず。
「……自分のために。……私のために」
彼女は、狂った三半規管を意志の力で捻じ伏せ、壁を伝ってキッチンへ向かった。 真っ暗な台所。彼女は電気をつけなかった。換気扇の小さな明かりだけを灯す。 冷蔵庫から、昨日買ったカブと、一切れの鶏肉を取り出した。
トントン。 まな板の上で、包丁が規則正しく踊る。 トントン、ツーツーツー、トントン。 それはモールス信号。SOSの合図。 美智子は、自分の喉の奥で鳴り止まないあの曲のリズムを、野菜を刻む音に重ねた。 眩暈で世界が揺れる。けれど、彼女の手は止まらない。 「……ギリギリダンス……ギリギリダンス……」
掠れた声で口ずさむ。汗が顎から滴り、鍋の中に落ちそうになる。 彼女は小鍋に水を張り、コンロの火をつけた。 青白い炎が、暗いキッチンをわずかに照らす。その火が、美智子の瞳に小さな、けれど確かな灯火を宿した。
コトコトと、鍋が歌い始める。 カブが透き通り、鶏肉の脂が琥珀色の雫となって水面に広がる。 立ち上る湯気。それは、埃っぽい部屋の匂いを消し去り、甘く、優しい香りで美智子を包み込んだ。
「……いい匂い」
美智子は、小さな器にスープを注いだ。 テーブルには座らなかった。キッチンの床に、そのまま座り込んだ。 震える手でスプーンを持ち、一口、熱い液体を口に含む。
熱。 それは喉を通って、冷え切っていた胃を、そして心の奥底に澱んでいた「霧」を、じわりと溶かしていった。 「……美味しい」
誰のためでもない。夫に「美味いか」と訊く必要もない。 ただ、私が「美味しい」と感じるための、私のためのスープ。 五感が、色を取り戻していく。 ステンレスの流しの冷たい感触。鍋の底で弾ける気泡の音。そして、自分の内側から湧き上がる、小さな勇気の味。
『はい、謹んで。……私のために、よろこんで』
美智子は、床の上で膝を抱え、最後の一滴までスープを飲み干した。 眩暈はまだ消えていない。更年期の嵐も、明日にはまたやってくるだろう。 けれど、美智子の胸の中には、今、一陽来復の火が灯っていた。 ひっくり返ったコップの後に、彼女は自分で自分に、スープを注ぎ込んだのだ。
スマートフォンの画面が、テーブルの上で光った。 PVはまだ「0」かもしれない。けれど、美智子は知っている。 あの物語を書いた「誰か」と、今、このスープの熱で繋がっていることを。
「……明日も、書くわよ。美智子。……明日も、スープを作るの」
冬至の夜。最も長い夜が、ゆっくりと明けようとしている。 美智子は、温かくなったお腹を抱え、深く、穏やかな眠りへと落ちていった。
試合は、まだ終わっていない。
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