第五話:コップの縁で踊る ――鳴らせ、絶望のビート――
第五話:コップの縁で踊る ――鳴らせ、絶望のビート――
十二月二十二日、冬至の夜。 キッチンには、換気扇の低い唸りと、沸騰した鍋から立ち上がる、どこか薬臭いような春菊の匂いが澱んでいた。 美智子は、首筋を伝う嫌な汗を、油の浮いた手の甲で拭った。更年期のホットフラッシュ。顔だけがカッと火照り、心臓が肋骨を裏側から叩くような不快な動悸が、執拗に彼女を追い詰めていく。
「……暑い。なのに、どうしてこんなに寒いの」
指先は死人のように冷え切っている。その矛盾した身体を抱え、彼女は「普通」のふりをして、夫の帰りを待っていた。
ガチャン、と玄関の鍵が回る音がした。 一拍おいて、重い足音。和夫が帰ってきた。彼はリビングに入るなり、着ていたコートをソファに投げ捨て、美智子の顔も見ずにテレビのスイッチを入れた。 画面の中で、若くて華やかなタレントたちが、大声で笑い転げている。その乾いた笑い声が、美智子の耳の奥で、割れたガラスを噛み砕くような不快な音に変換される。
「飯、まだか」 和夫の第一声は、いつも同じだ。彼は美智子がこの一年、どれほど重い扉の中に引きこもり、どれほど必死にこの夕食を整えたかなど、一ミリも想像だにしない。
「……今、よそるから。ちょっと、身体が重くて」
美智子は精一杯の声を振り絞って応えた。しかし、和夫はスマホを操作しながら、鼻で笑った。 「またかよ。お前のそれ、いつまで続くんだ? 検査しても異常なしなんだろ。結局、気持ちの問題じゃないのか」
「……気持ちの問題じゃないのよ。この火照りも、足が動かなくなるような倦怠感も、本当に、そこにあるの」
「はいはい。更年期だろ? みんな通る道なんだから、お前だけが特別しんどいみたいなツラすんなよ。陽子さんを見ろよ、孫ができたってあんなに生き生きして……」
陽子。その名前が出た瞬間、美智子の脳内で、ピンと張り詰めていた糸が、汚い音を立てて断ち切れた。 親友の陽子。孫の写真。子供の自慢。あの輝かしい「正解の人生」という暴力。
美智子は、震える手で汁椀をテーブルに置いた。 その拍子に、椀から熱い味噌汁が溢れ、美智子の親指を焼いた。
「あっ……!」 「あーあ、何やってんだよ。どんくさいな」
和夫は舌打ちをした。彼は布巾を差し出すことさえせず、ただ不機嫌そうに自分のスマホを拭いた。 その瞬間。美智子の視界が、真っ赤に染まった。 ホットフラッシュの火照りではない。彼女の三十五年間の「沈黙」が、一気に沸点を超えたのだ。
「……いい加減にして。いい加減にしてよ!」
美智子の叫びが、リビングの空気を切り裂いた。 和夫は驚いたように顔を上げた。 「なんだよ、急に。お前こそ、いい加減にしろよ。こっちは外で働いて疲れて帰ってきてるんだ。家で一日中引きこもってる奴に、そんな大声出される筋合いねえよ」
「一日中引きこもってる? 私がここで、どんな暗闇にいるか、あなたにわかる!? 喉まで絶望がせり上がってきて、一歩も動けなくなる。鏡を見るたびに、自分の価値が消えていくのがわかる。それなのに、あなたは……ご飯? 陽子さんの孫? 私は、あなたの『家政婦ロボット』じゃないのよ!」
「うるせえな! 病気だかなんだか知らねえが、そんなに辛いなら病院にでも閉じこもってろよ! お前のその陰気なツラ、もう見飽きたんだよ!」
和夫が椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。 その衝撃で、テーブルの上のコップが倒れた。 透明な水が、美智子の目の前で広がっていく。孤独なコップが、ひっくり返った。
「……そう。見飽きたのね。私という存在を」
美智子の声は、一転して、氷のように冷たくなった。 心臓の鼓動が、今までとは違うリズムを刻み始める。 トントン、ツーツーツー、トントン。 脳内で、あの曲が爆音で鳴り響いた。こっちのけんとの『はいよろこんで』。 「……あは。……あはははは!」
「おい、何笑ってんだよ。気味の悪い」
美智子は、和夫の言葉を無視して、おもむろにスマートフォンを手に取った。 音量を最大にする。 イントロの激しいビートが、澱んだリビングの空気を、粉々に粉砕した。
『はい喜んで、あなた方のために!』
「何するんだよ、消せよ!」
「消さないわよ! 聴きなさいよ、これが私の今の音よ!」
美智子は踊り始めた。 膝は笑い、足首は重い。身体は更年期の火照りでドロドロに溶けそうだ。 けれど、彼女はもつれる舌で、叫ぶように歌い出した。
「ギリギリダンス、ギリギリダンス……! 踊れ、もっと鳴らせ!」
「やめろ、馬鹿かお前は!」
「馬鹿で結構よ! はい、謹んで! あなた方のために! 嫌嫌で生き延びてきたのは、この私よ! あなたの顔色を窺って、親友の自慢話に愛想笑いして、自分のコップが空っぽになるまで注ぎ続けて……! もう限界なのよ、このわからずや!」
美智子は和夫の周りを、地を這うようなステップで回り始めた。 五感が狂いそうになる。 鼻を突く春菊の匂い。和夫の着ているスーツの加齢臭。 窓の外から差し込む、冷酷なシャンパンゴールドの街灯の光。 そして、喉の奥を焼くような、鉄の味がする叫び。
『鳴らせ君の3〜6マス』
「……トントン、ツーツーツー、トントン! 聴こえる!? これが私のSOSよ! あなたに無視され続けて、陽子さんに踏みにじられて、雪の下で凍えてる私の声よ!」
「頭がおかしくなったのか……!」
和夫は怯えたように後ずさり、寝室へ逃げ込んだ。 バタン、と大きな音がして、リビングには激しいビートと、美智子の荒い息遣いだけが残された。
曲が終わった。 静寂が訪れる。 美智子は、床に倒れ込むように座り込んだ。 ひっくり返ったコップの水が、彼女の靴下を冷たく濡らしている。 「……ふう。……ふう……」
肩で息をしながら、彼女は自分の手を見つめた。 震えている。けれど、今までのような「怯え」の震えではない。 三十五年かけて積み立ててきた「忍耐」という名の偽物を、今、すべて引き出したような、爽快な疲労感だった。 「……いい話じゃない、美智子」
彼女は自分に、小さく声をかけた。 夫は理解しなかった。親友は助けてくれなかった。 けれど、彼女は今、自分の喉で、自分のための「SOS」を鳴らしたのだ。 窓の外、冬至の夜はまだ深い。 けれど、美智子の瞳には、ひっくり返ったコップの水が反射して、小さな、けれど鋭い光を宿していた。 ――試合は、まだ始まったばかりだ。 彼女は、濡れた靴下を脱ぎ捨てると、再びキッチンに向かった。 夫のためではない。 自分が生き延びるための、新しいスープを温め直すために。
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