第3話 境界線としての玄関
第3話
境界線としての玄関
朝だか昼だか分からない時間に、美智子は目を覚ました。
カーテンの隙間から、白っぽい光が床に落ちている。冬の光は薄くて、影だけがはっきりしていた。
「……何時」
声に出した瞬間、喉がかさついているのが分かる。
枕元の時計を見ると、十時を少し過ぎていた。
「……ゴミの日」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「……今日、燃えるゴミ」
頭では分かっている。袋も、もう縛ってある。
昨日の夜、ちゃんとやった。流しの下に置いてある。
「出すだけ……」
たったそれだけのことなのに、
体が、言うことを聞かない。
布団から起き上がろうとした瞬間、心臓が跳ねた。
ドクン、ドクン。
急に速くなる鼓動。
「……待って」
美智子は、胸に手を当てる。
「大丈夫、大丈夫……」
言い聞かせる声が、頼りない。
息を吸うと、胸が苦しい。
吐いても、苦しい。
「……まだ、行かなくていい」
自分に許可を出すみたいに呟いて、
もう一度、布団に沈む。
でも、頭の中では玄関が浮かぶ。
ドアノブ。
靴箱。
郵便受け。
「……玄関」
その言葉だけで、喉が詰まる。
しばらくして、少し落ち着いたころ、
美智子は、ゆっくりと起き上がった。
「……行くだけ」
一歩。
二歩。
廊下を歩く音が、やけに大きく響く。
自分の足音なのに、他人のものみたいだ。
「……近い」
玄関は、すぐそこなのに。
ゴミ袋を手に取る。
中身が揺れて、しゃり、と音がした。
「……音、立てないで」
誰に向かって言っているのか分からない。
近所の人?
世界?
それとも、自分の心臓?
玄関に立った瞬間、空気が変わった気がした。
ひんやりして、重い。
「……靴」
靴を出そうとして、手が止まる。
ドアの向こうに、外がある。
人がいる。
声がある。
視線がある。
「……無理」
心臓が、また早くなる。
「無理無理無理……」
背中に、汗が滲む。
冬なのに、背中だけが熱い。
「……どうして」
涙が、滲む。
「どうして、ゴミ出しが……」
こんなことで。
こんなことで、動けなくなるなんて。
「……私は、壊れてない」
言い聞かせる。
「壊れてない。ただ……」
ただ、怖い。
玄関のドアが、巨大な壁に見えた。
薄いはずの一枚の板が、
世界と自分を完全に切り離している。
「……開けたら、戻れない」
何が起きるわけでもない。
ただゴミを出して、戻ってくるだけ。
それだけなのに。
「……開けたら、倒れる気がする」
「息、できなくなる気がする」
美智子は、ゴミ袋を床に置いた。
その音が、やけに大きく響く。
「……今日は、無理」
そう言って、玄関に背を向けた。
廊下を戻る足取りが、少しだけ軽い。
逃げた。
そう思って、胸が痛む。
「……逃げた、よね」
自室に戻り、ドアを閉める。
カチリ、という音。
「……閉じた」
それだけで、少し息ができた。
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。
指が、勝手に動いた。
音楽アプリ。
再生履歴。
「……これ」
こっちのけんと。
『はいよろこんで』
再生ボタンを押す。
軽快なイントロが、部屋に流れた。
リズム。
明るい声。
「……うるさい」
最初は、そう思った。
でも、耳を塞ぐほどでもない。
ただ、元気すぎる。
「はいよろこんで!」
そのフレーズが、飛び込んでくる。
「……はい、よろこんで?」
美智子は、苦笑した。
「無理でしょ……」
でも、曲は止まらない。
軽やかで、前向きで、少しだけ無理をしているみたいな声。
「……なんで、こんな元気なの」
そう言いながら、
不思議と、息が少し楽になる。
「……別に、元気になれって言ってない」
歌は、そう言っている気がした。
――できなくてもいい
――壊れててもいい
「……そう?」
美智子は、ベッドに横になった。
天井を見る。
リズムに合わせて、指先が少し動く。
無意識に。
「……踊れって?」
誰も見ていない。
誰も、評価しない。
「……一人だし」
小さく、肩を揺らす。
ほんの少し。
「……変なの」
でも、心臓の音が、少しだけ落ち着いている。
「……玄関は、無理だけど」
「……ここなら」
曲が、サビに入る。
「はい、よろこんで!」
「……はい」
美智子は、かすれた声で返事をした。
「……よろこんで、は……無理」
「……でも」
一瞬、立ち上がる。
ふらつく。
「……座ってても、いい?」
音楽は、否定しない。
美智子は、その場で小さく身体を揺らした。
踊りでも、運動でもない。
ただ、リズムに身を預ける。
「……誰にも、迷惑かけてない」
「……ここにいるだけ」
曲が終わる。
部屋に、静けさが戻る。
胸に手を当てる。
心臓は、まだ速いけれど、
さっきほど暴れていない。
「……玄関は、今日も境界線」
「……でも」
美智子は、スマホを胸に抱えた。
「……私は、こっち側で、ちゃんと呼吸してる」
ゴミ袋は、玄関に置いたままだ。
世界は、まだ遠い。
それでも、
自室という小さな場所で、
美智子は一度、世界と繋がる音を聴いた。
それで、今日は、いい。
そう自分に言って、
目を閉じた。
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