第2話 親友という名の疎外感
第2話
親友という名の疎外感
午後の光は弱く、カーテン越しに滲んでいるだけだった。
美智子はソファに腰を沈め、膝の上に毛布をかけていた。暖かいはずなのに、足先だけが冷たい。
「……寒いのか、私」
独り言は、部屋の空気に吸い込まれて消えた。
エアコンの送風音。冷蔵庫の低い唸り。時計の針の音。
家の中は静かなのに、胸の奥だけが落ち着かない。
スマホが、テーブルの上で震えた。
「……っ」
一瞬、心臓が跳ねる。
反射的に画面を見るのが怖くて、すぐには手を伸ばせない。
「誰……?」
分かっている。
こういう時間に連絡をしてくるのは、一人しかいない。
ゆっくりとスマホを手に取る。
画面に表示された名前を見て、小さく息を吐いた。
「……陽子」
親友。
学生時代からの付き合い。
何でも話せたはずの人。
通知を開くと、動画のサムネイルが表示された。
小さな足。白い靴下。フローリングの上を、よちよちと進む影。
《見て見て!》
《ついに歩いたのよ♡》
《可愛いでしょ?》
動画が自動再生される。
甲高い笑い声。
「ほら、こっちおいで〜」という、若い女性の声。
きっとお嫁さんだ。
画面の中の赤ん坊は、転びそうになりながら、それでも前に進いている。
拍手の音。
「すごーい!」
「えらいね!」
「……すごいね」
美智子は、声に出して言った。
誰もいない部屋で。
「……えらいね」
画面を見つめながら、胸の奥がじわっと痛む。
妬みじゃない。
羨ましさでもない。
もっと、名前のつかない感情。
「よかったね……」
そう思っているはずなのに、
指が、返信欄に向かわない。
《美智子も、早く孫が見られるといいわね》
最後の一文が、画面の下にあった。
絵文字付き。
無邪気で、悪気のない言葉。
「……早く、って」
美智子は、スマホを握る手に力を込めた。
指先が冷たい。
「“早く”って、何?」
誰に向けた問いか分からない。
陽子か。
自分か。
それとも、この世界か。
「私の人生、遅れてるの?」
声が、少し震えた。
美智子は、目を閉じる。
目の裏に、いくつもの場面が浮かぶ。
子どもが生まれた日のこと。
夜泣きで眠れなかった日々。
学校と家を往復して、毎日が必死だった頃。
「ちゃんとやってきたよ……」
誰に言い訳するわけでもなく、呟く。
「ちゃんと、やってきた」
それなのに、いまはここだ。
ソファから動けず、スマホ一つに心を揺らしている。
再生が終わり、動画は静止した。
赤ん坊の笑顔が、画面に残る。
「……かわいいよ」
小さく言う。
「かわいい。でも……」
その先が、言葉にならない。
返信欄を開く。
カーソルが、点滅する。
《おめでとう》
打って、消す。
《よかったね》
打って、消す。
《すごいね》
それも、消す。
「……嘘じゃないけど」
スマホを膝に置き、両手で顔を覆う。
目の奥が、じんとする。
涙が出るほどじゃない。
でも、確実に痛い。
「私、いま……」
何を言えばいい?
《私、外に出られないの》
《毎日、怖いの》
《あなたの幸せが、つらい》
どれも、送れない。
「言ったら……壊れる」
友情が。
自分が。
それとも、全部か。
スマホが、もう一度震えた。
《見てる?》
《返事ないから、忙しいかなって》
忙しい。
その言葉に、思わず笑いそうになる。
「……忙しくないよ」
声に出して言う。
「ただ、動けないだけ」
親友に、それをどう説明すればいいのか。
説明したところで、理解してもらえるのか。
「陽子は、悪くない」
それは本当だ。
陽子は、ただ自分の幸せを分けてくれているだけ。
それが“正しいこと”だと信じている。
「……私が、おかしいんだよね」
そう言うと、胸がきゅっと縮む。
美智子は、スマホを裏返した。
画面が、黒くなる。
世界が、一瞬、遠ざかる。
「……見なきゃ、よかった」
そう思って、すぐに否定する。
「違う。見なきゃよかったんじゃない」
「……受け取れなかった」
それだけだ。
テーブルの上の湯のみを手に取る。
中身は、ぬるくなったお茶。
一口飲むと、苦味が舌に残る。
「……冷めてる」
それが、いまの自分みたいで、苦笑する。
スマホを伏せたまま、しばらくじっとしていると、
部屋の音が、少しずつ戻ってくる。
時計。
風。
遠くの車の音。
世界は、ちゃんと動いている。
「……私だけ、止まってる」
誰にも聞こえない声で、そう言った。
スマホが、もう一度震えた。
裏返しのままなのに、その振動だけで、胸がざわつく。
「……ごめん」
美智子は、誰にともなく呟いた。
「返せない」
「おめでとう、って言えない」
「今は……人の幸せを、まっすぐ受け取れない」
それは、弱さだろうか。
それとも、正直さだろうか。
美智子は、深く息を吸った。
肺が広がる。
少しだけ、楽になる。
「……今日は、ここまで」
スマホを引き出しにしまい、静かに閉める。
金属の音が、小さく鳴った。
その音で、何かを切り離した気がした。
永遠ではない。
今日だけ。
今の自分を守るための距離。
「……陽子、ごめんね」
そして、心の中で続ける。
「でも、私も……生きてる」
窓の外は、もう夕方に近い。
光が傾き、部屋の中に長い影を落とす。
美智子は毛布を握り直した。
指先に、かすかな温もりが戻ってくる。
誰とも繋がっていないようで、
それでも、自分の呼吸だけは、ここにある。
それだけを確かめるように、
美智子は目を閉じた。
スマホは、沈黙したままだった。
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