第1話 火照る部屋と、冷めた飯
冬至の午後、台所の窓はうっすら曇っていた。外の空は鉛みたいに重く、陽が短いせいか、まだ三時台なのに夕方の気配が忍び込んでくる。
美智子は鍋をかき混ぜながら、首筋に伝う汗を手の甲で拭った。
「……暑い」
吐いた息が白くならない。なのに、体の芯だけが燃えている。背中の内側に小さなストーブが仕込まれているみたいに、じわじわ、じわじわ。
暖房は入れていない。なのに額は熱く、耳の後ろが脈打って、頬の内側まで火照る。
「いま、十二月だよね……?」
自分に言い聞かせるように呟くと、換気扇の低い音だけが返事をした。
味噌と出汁の匂いが、湯気といっしょに立ち上って、鼻の奥にからむ。今日は豚汁。大根の白い断面、にんじんの赤、こんにゃくの灰色。包丁で叩いたときの、まな板に響く乾いた音が、さっきまで耳に残っている。
鍋の縁に指が触れて「熱っ」と小さく声が出た。
熱いのは鍋だけじゃない。自分も、だ。
「……また汗」
美智子は襟元を引っぱって、冷たい空気を入れようとする。パジャマの下の肌がべたついて、気持ちが悪い。更年期って、こういうやつ。テレビで聞いたことはある。友達が笑いながら言っていたこともある。
――「暑いのに寒いんだよ、笑えるよね」
「笑えないよ……」
思わず口から出て、台所に落ちた。
美智子は鍋の火を弱め、まな板の上の長ねぎを手に取る。切り口から、つんとした匂いが立った。涙腺が刺激される。目の奥がじわっとする。
「泣いてんじゃない。ねぎだよ、ねぎ」
そう言いながら切る。
とん、とん、とん。
包丁の音が、ひどく規則正しい。
規則正しい音を刻んでいれば、心も整う気がする。昔は、そうだった。
子どもの弁当を作って、洗濯機を回して、家を出る前に部屋を整えて、遅刻しないように走って。そういう日々の“ちゃんとした”積み重ねが、自分を支えてくれると思っていた。
ところが最近は、規則正しくしても、体がついてこない。
「……はあ」
息を吐くと、胸の内側がざわつく。
心臓が、急に速くなる。
ドクン、ドクン。
耳の中で太鼓が鳴るみたいだ。
「大丈夫、大丈夫……」
美智子は台所の椅子に腰を落とし、両手でテーブルの縁を握った。木目がざらついていて、指先がほんの少し落ち着く。
台所の時計がカチカチ鳴る。時間だけは進んでいく。
「……今日、冬至だっけ」
カレンダーに小さく赤丸がついていた。
冬至。ゆず湯。かぼちゃ。
昔なら、ちゃんと用意した。子どもが小さい頃は「今日は特別だよ」って言って、湯船にゆずを浮かべて、笑わせた。香りがふわっと広がって、家族が同じ湯気の中にいた。
いまは、ゆずを買いに行くことが、遠い。
玄関までの距離が、ひどく長い。
靴を履くという行為が、崖みたいに見える。
「買い物は……無理」
美智子は、鍋を見つめる。
豚汁の湯気が、眼鏡の内側を曇らせる。
曇った世界に、自分の顔がぼやけて映る。
「……私、誰?」
小さく言った瞬間、奥の部屋から物音がした。
夫の和夫が、帰ってきたのだろう。玄関の鍵の音。靴を脱ぐ音。コートをどこかに投げる音。
「ただいまー」
声はあるのに、気配が冷たい。
美智子は、台所にいるのに、その声が壁越しに聞こえるみたいに遠い。
「おかえり」
返事をする。自分の声が薄い。
和夫は返事をしない。代わりにスマホの通知音が、ぴろん、と鳴った。
美智子は、鍋の火を止めた。
味噌の香りが濃くなる。具が鍋底で静かに沈む。
この香りが、夕方の始まりの合図だったはずなのに、今日は妙に胸を圧迫する。
リビングに和夫が入ってきた。スーツの肩に冬の冷気が残っている。鼻をかすめるのは、外の乾いた空気と、少しだけタバコの残り香。
「飯は?」
その一言が、刃みたいに落ちる。
美智子の肩が小さく揺れた。
「……作ってるよ。豚汁、あと、焼き魚」
「ふーん」
和夫は、テーブルの椅子にどさっと座り、スマホを片手に画面をスクロールし始めた。顔を上げない。美智子のほうを見ない。
視線がこちらに触れないことが、こんなに痛いなんて、昔は思わなかった。
美智子は皿を並べる。
焼き魚の皮がぱりっとして、脂の匂いが立った。
小鉢のほうれん草のおひたし。
いつも通り。ちゃんとした夕飯。
「はい」
箸を置く。
和夫は箸を取って、魚を一口食べた。咀嚼する音だけが響く。
そして、ぼそっと言った。
「なんだ、またこれか」
美智子の手が止まった。
「……またって?」
「いや、いつも似たようなもんじゃん。魚、味噌汁」
「豚汁だよ」
「どっちでもいいよ」
その言い方が、胸の奥を冷やした。
体は火照っているのに、心だけが冷えた。
美智子は笑おうとした。冗談みたいに返そうとした。
でも、頬が引きつった。
「……冬至だから、あったかいほうがいいかと思って」
「冬至? だから何?」
和夫は画面から目を離さず、魚の骨を皿の端に寄せる。
その手つきが、まるで機械みたいに淡々としている。
「……ゆず湯とか」
「そんなの、別に。めんどくさい」
めんどくさい。
その言葉が、台所の匂いを一瞬で腐らせた気がした。
美智子は箸を握り直した。指先が汗で滑る。
喉の奥が熱い。息が浅くなる。
「めんどくさいって……私が?」
「いや、そういう行事。疲れるじゃん。仕事して帰ってきてさ」
和夫は、やっと顔を上げた。
でも視線は、美智子ではなく、テレビのほうへ滑った。
「……ねえ」
美智子は言った。声が震えないように、ゆっくり。
「私の顔、見て」
和夫が眉をひそめる。
「は? なんで」
「見て。ちょっとでいいから」
美智子は椅子の背を握った。木がきしむ。
体の内側の火が、じわっと強くなる。ほてりが首から頭へ駆け上がる。
「……具合、悪いの」
和夫は、ため息をついた。
「また? それさ、いつも言ってない?」
「いつもじゃない。……でも、最近、しんどい」
「病院行けばいいじゃん」
「行ってるよ」
「じゃあ、何」
「何、って……」
美智子は言葉を探す。
体の不調は、数値にならない。熱はない。骨は折れてない。だから、説明しないと伝わらない。
けれど説明しようとすると、喉が詰まる。
「外に出るのが……怖いの」
和夫の口元が少し歪んだ。笑いか、呆れか、どちらとも取れる薄い形。
「怖い? 何が」
「分からない……でも、玄関が……」
「玄関?」
和夫は箸を置いた。
「……お前さ、甘えてんじゃないの?」
甘えてる。
その一言で、胸の中の何かが、ひび割れた。
「甘えてない」
「だって、家の中では動けてるじゃん。飯も作れるし。だったら外も行けるでしょ」
「違う……」
美智子は首を振る。ほてりがさらに増して、耳が熱い。
涙が出そうなのに、出ない。目の奥だけが痛い。
「外に出ると、息ができなくなる」
「息?」
「動悸がして……倒れそうになる」
和夫は肩をすくめた。
「更年期とかじゃないの? みんな通るやつ」
「……みんな、通る?」
「そうだろ。母さんだって言ってたぞ。暑い暑いって。だけど普通に買い物もしてたし」
美智子は、食卓の豚汁を見た。
湯気が細く上がっている。
それが、家族の温かさの象徴だった時代がある。
なのに今は、その湯気が、ただの水蒸気に見える。
「……ねえ」
美智子は、もう一度言った。
「私の話、聞いて」
和夫は眉間に皺を寄せた。
「今、飯食ってんだけど」
「今じゃないと、いつ?」
「いつでもいいだろ」
「いつでもって、いつも聞いてないじゃん」
声が少し大きくなった。
その瞬間、和夫の顔が硬くなった。
「……お前、最近、イライラしてない?」
「イライラするよ!」
美智子は立ち上がった。椅子が床を擦って、ぎ、と音を立てる。
自分の声が、部屋に反響して、耳に刺さる。
「イライラするよ……毎日、体が熱くて、眠れなくて、怖くて……それでもご飯作って、洗濯して……」
息が切れる。
胸が痛い。
心臓が暴れる。
そのたびに「私、死ぬの?」って思う。
「……それなのに」
美智子は、言葉を続けようとして、詰まった。
喉がカラカラで、舌が動かない。
和夫が不機嫌そうに言う。
「大げさ」
その二文字が、絶望だった。
美智子は、笑ってしまいそうになった。
大げさ。そう、私は大げさ。
じゃあ、何なら大げさじゃないの?
「……大げさだよね」
美智子は、座り直した。
座った瞬間、脚が震えた。立っていることすら、今は怖い。
豚汁を一口すすった。
熱い。
舌がびりっとする。
でも、その熱さが、救いにならない。
「……冷めた」
呟くと、和夫が顔を上げた。
「は? 豚汁? なら温めればいいだろ」
美智子は首を横に振った。
「違う。……違うの」
和夫は、黙って魚を食べ始めた。
骨を外す音。皿に箸が当たる音。
テレビのニュース。誰かの不祥事。株価。天気。
この家の中で、自分の苦しさだけが、どこにも映らない。
美智子は、箸を置いた。
口の中が乾いて、味がしない。
目の前の食卓が、遠い。
「……ねえ、和夫」
小さな声で呼ぶ。
「……何」
「私、消えたみたい」
和夫は眉をひそめた。
「意味わかんない」
「意味わかんないよね……私も」
美智子は笑った。
笑ったはずなのに、頬が濡れた。
涙が勝手に落ちた。
「おい……泣くなよ」
和夫の声に、ほんの少しだけ苛立ちが混じった。困惑ではなく、迷惑そうな苛立ち。
「泣きたくない」
美智子は涙を拭った。
手の甲が温かい。自分の涙の温度が、ひどく生々しい。
「泣きたくないのに、勝手に出る」
和夫はため息をつき、箸を置いた。
「……だから病院行けって」
「行ってるって言ったじゃん」
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
どうしろ。
その問いが、突き放しだった。
美智子は、答えを持っていない。
ただ、話を聞いてほしかった。
顔を見て、「つらいのか」って一言、言ってほしかった。
「……分かんない」
美智子は、ぽつりと答えた。
「分かんないけど……このままじゃ、無理」
和夫は、スマホを掴み直し、画面に目を落とした。
「俺も疲れてんだよ」
その言葉が、最後の蓋になった。
美智子の中に溜まっていたものに、重い蓋が落ちる。
息ができない。
でも叫べない。
叫んだら、壊れる。
美智子は、豚汁の鍋を見た。
湯気が薄くなっている。
冷めていく。
あんなに熱かったのに、冷めていく。
「……冬至なのに」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
外は暗くなりかけている。
窓ガラスが、冷たい色に変わっていく。
日が沈むのが早い。
冬は、すぐに夜になる。
美智子の胸の中も、同じだった。
まだ夕方なのに、もう夜みたいだ。
それでも、鍋の底には、まだ少し温かさが残っている。
美智子は指先で、その鍋の縁にそっと触れた。
熱い。
痛い。
「……痛いよ」
声にすると、涙がまた落ちた。
和夫は、聞こえなかったふりをした。
テレビの音が少しだけ大きくなった気がした。
美智子は、湯気の消えかけた豚汁を見ながら、心の中で、誰にも届かない言葉を繰り返した。
――助けて。
――ねえ、助けて。
でも、口に出す代わりに、ただ両手を膝の上で握りしめた。
コップの水面が、ぎりぎりまで揺れている。
溢れる寸前の、震え。
その震えだけが、今夜の温度だった。
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