プロローグ

プロローグ


『冬萌(ふゆもえ)の断絶 ――ひっくり返せ、50代のコップ――』


「……暑い」


声に出した瞬間、自分の声がやけに遠く聞こえて、美智子は一度、唇を閉じた。

窓の外は十二月だ。午前四時。カーテンの隙間から、冬の街灯の白い光が、薄く床に滲んでいる。


それでも、体の内側だけが、じわじわと火照っている。


「なんなの、これ……」


パジャマの首元を引っ張る。肌に張りついた布が、ひどく鬱陶しい。汗なのか、熱なのか、もう区別がつかない。

加湿器が、しゅう、しゅう、と小さな音を立てている。白い蒸気が、ぬるく、頼りなく、部屋の空気に溶けていく。


美智子は、布団の中で膝を抱えた。


「寒いのか、暑いのか……どっちかにしてよ」


誰に言うでもなく、そう呟く。

返事はない。もちろん、あるはずもない。


台所のほうから、かすかに匂いが流れてくる。

昨日の味噌汁だ。火は落としてあるのに、鍋の底に残った匂いだけが、しつこく家の中に居座っている。


「ああ……」


鼻の奥が、つん、とする。

大豆の甘さと、煮崩れた豆腐の匂い。悪くなっているわけじゃない。ただ、もう“役目を終えた匂い”だ。


「捨てなきゃ……」


そう思うのに、体が動かない。


美智子は天井を見つめる。

薄い染み。何年前からあっただろう。引っ越してきたときから? それとも、いつの間にか、増えた?


「……ねえ」


小さく声を出す。


「ねえ、和夫」


隣の部屋から、低い寝息が返ってくるだけだ。

夫は、もう何年も前から、別々の部屋で寝ている。


「聞いてる?」


答えはない。


「ねえ、ちょっとでいいからさ……」


喉の奥が、きゅっと縮む。

“何を”聞いてほしいのか、自分でも分からない。ただ、声を投げて、返ってきてほしかった。


美智子は、布団からゆっくり起き上がる。足の裏が、冷たい。フローリングの感触が、現実を突きつける。


台所に立つと、時計が午前四時二十分を指していた。


「まだ、こんな時間……」


シンクの横には、昨日の洗い物がそのまま積まれている。

きれいに洗ったはずなのに、どれも“終わった後”の顔をしている。


鍋の蓋を開けると、味噌汁の匂いが、むわっと立ち上った。


「……はあ」


ため息が、自然に漏れる。


「また、これかって言うんでしょ」


美智子は、夫の声を思い出す。


――「なんだ、またこれか」


――「毎日、同じようなもんだな」


その声が、耳の奥で再生される。


「毎日、同じじゃない日なんて……ある?」


鍋を見下ろしながら、そう言ってみる。

味噌汁は何も答えない。


冷蔵庫を開ける。白い光。

中には、ちゃんと食材がある。何も困っていないはずだ。


「困ってない、よね」


美智子は、自分に言い聞かせるように呟く。


「家もある。夫もいる。友達も……いる」


スマホが、テーブルの上で光った。

通知。


「……陽子」


メッセージを開くと、動画が送られてきている。

小さな靴を履いた孫が、よちよちと歩く姿。


――《ねえ、見て! もう歩いたのよ♡》


――《可愛いでしょ?》


画面の向こうで、甲高い笑い声がする。


「……そうだね」


声に出して、そう言う。

でも、指は動かない。返信欄を開いたまま、閉じてしまう。


「おめでとう、って……」


言えない。


「よかったね、って……」


言葉が、喉に引っかかる。


「私、今……それ、言える状態じゃない」


スマホを伏せる。

テーブルに、こつん、と小さな音がする。


美智子は、椅子に座り込んだ。


「ねえ……私、何が足りないの?」


問いかける相手はいない。

ただ、加湿器の音と、冷蔵庫の低い唸りだけが、部屋を満たしている。


胸の奥に、何かが溜まっている。

いっぱいだ。もう、なみなみだ。


「コップ……」


ふと、そんな言葉が浮かぶ。


「私の中の、コップ」


これ以上、何かを注がれたら、溢れる。

でも、溢れたら困る。迷惑をかける。そうやって、ずっと耐えてきた。


「……ひっくり返したら」


思わず、声に出る。


「ひっくり返したら、どうなるんだろ」


こぼれる。

床が濡れる。

誰かに、怒られる。


「でも……」


美智子は、両手をぎゅっと握った。


「もう、溜める場所、ないんだよ」


喉が、熱い。

目の奥が、じん、とする。


「助けて、って……言っていいのかな」


誰にともなく、そう呟く。


返事はない。

でも、その沈黙の中で、美智子は初めて、はっきりと感じていた。


――このままじゃ、だめだ。


それは決意でも、希望でもない。

ただの、限界だった。


外はまだ、冬の闇の中だ。

それでも、土の下では、何かが静かに準備をしている。


美智子は、鍋の蓋をそっと閉めた。


「……今日は、捨てよう」


昨日の味噌汁を。

昨日までの自分を。


そう、心の中で呟いてから、もう一度、静かな部屋を見回した。


「大丈夫」


誰に言うでもなく、そう言ってみる。


「……大丈夫、じゃなくても」


その言葉が、胸の奥で、小さく震えた。


――冬萌。


まだ見えないけれど、

断絶の向こうで、何かが芽吹こうとしている。


美智子は、その気配だけを抱えたまま、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


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