『冬萌(ふゆもえ)の断絶 ――ひっくり返せ、50代のコップ――』

春秋花壇

『冬萌(ふゆもえ)の断絶 ――ひっくり返せ、50代のコップ――』

冬萌(ふゆもえ)の断絶


――ひっくり返せ、50代のコップ――**


火は消えている

それでも鍋の底だけが

まだ、しつこく温かい


昨日の味噌汁の匂い

煮崩れた豆腐

名も呼ばれなかった三十五年分の

「ありがとう」が沈んでいる


コップは満たされていた

けれど

誰のために注がれた水だったのか

もう、わからない


玄関は

外と内を分ける扉ではなく

私を世界から切り離す

白い壁になった


「飯は?」

その一言で

私の一日は終わる


親友の笑顔

孫の動画

祝福の言葉が

刃物みたいに

優しく刺さる


身体はここにある

でも

心はどこにもいない


火照る夜

息が浅く

目を閉じても

眠りは来ない


それでも

私は鍋に水を張る

誰のためでもなく

初めて

自分のために


玉ねぎを刻む音

涙は

もう理由を選ばない


「孤独なコップを

ひっくり返せ」


その言葉が

胸の奥で

小さく鳴る


溢れていい

こぼれていい

もう

溜めなくていい


ぎこちない身体で

一人

踊る

歌う

笑う


壊れたまま

「はい、よろこんで」


冬の土の下で

芽は

音もなく

準備をしている


春を証明するために

咲く必要はない


私は

鍵を握る

一歩だけ

扉を開ける


スープの材料を

買いに行くために


これは勝利ではない

回復でもない


ただ

私が

私を

置き去りにしない

という選択


――冬萌。


断絶の先で

まだ名もない

あたたかさが

静かに

湯気を立てている。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る