中年ゲイの久しぶりのデート

Aki Dortu

中年ゲイの久しぶりのデート

 待ち合わせは、土曜の夜七時。

 なのに俺は、六時ちょうどにはもう駅前のベンチに座っていた。


 スマホの画面を点けて、消す。点けて、消す。

 通知はない。そもそも、あるはずもない。

 それでも指だけが勝手に動く。


「……早すぎるだろ」


 心の中で言ってみる。言ったところで、時間が早く進むわけでもない。

 駅前は、いつもの土曜みたいに人が多い。家族連れ、学生、カップル。

 今日はそれが、少しだけ“正しい”顔をしている。——クリスマスイブだからだ。

 当然みたいに笑って、当然みたいに予定があって、当然みたいに未来へ向かって歩いている。


 俺だけが、ひとりで“待つ”という行為に全力を使っている。

 しかも、恋愛絡みの待ち合わせに。


「デートの仕方、忘れた」


 口に出すほどの勇気もなくて、胸の奥でつぶやく。

 中年になると、恋愛を避ける理由だけが増える。仕事が忙しい、疲れている、今さら、傷つきたくない、面倒なことはしたくない――全部、もっともらしい。


 それでも今日、俺はここにいる。

 もっともらしい理由を全部横にどけて、わざわざ怖い方へ来ている。

 クリスマスイブに、ひとりで部屋にいるのがいちばん楽なはずなのに。


 スマホをまた点ける。

 トーク画面は静かなままだ。

 既読も、通知も、何もない。

 息だけが浅くなる。


 このまま駅前に立ち尽くしているのが恥ずかしくなって、俺はベンチを立った。

 歩いて落ち着くのは、昔からの癖だ。落ち着かないときほど、足が勝手に動く。


 駅前の大通りを少し離れて、細い道へ入る。

 コンビニの光が白くて、まぶしい。

 家族連れがレジ前で何を買うか揉めている。高校生の集団が、どうでもいい話で笑っている。


 眩しい、と思った。

 光が、じゃない。

 ああいうふうに、何かを当たり前に楽しめる空気が。


 最後に「恋人」と呼べる相手がいたのは、いつだったか。

 思い出すのに時間がかかるようになった時点で、もう色々終わっている気もする。


 別れ方は、きれいじゃなかった。

 忙しい、と言い訳して、連絡を減らして、会う回数が減って、向こうも何も言わなくなって。

 気づいたら、どっちも「なかったこと」にしていた。


 ちゃんと終わらせなかったから、始め方が分からない。

 中年になって恋愛が怖いのは、年齢のせいだけじゃない。

 自分が自分のことを信用できなくなるからだ。


 スマホが震えた。

 心臓が先に跳ねる。


「今向かってます。イブに一人でいるのも落ち着かなくて。6:55ごろには着きます」


 短い文。絵文字もない。

 それなのに、胸の奥が少しだけほどけた。

 俺は返信しようとして、やめた。どう返していいか分からない。返し方すら、忘れている。


 十分歩いたつもりなのに、時計を見るとまだ十分前。

 結局、俺はまた駅前に戻ってきてしまう。

 戻る足だけが、俺の代わりに決断してくれる。


 待ち合わせ場所の前で、俺は意味もなく看板の文字を読み、広告の端を追い、通り過ぎる人の足元を見た。

 落ち着け、と言い聞かせるほど落ち着かない。


「お待たせしました」


 声がして振り向くと、彼がいた。

 ゲイバーで見たスーツ姿じゃなく、淡い色のシャツにデニム。肩の力の抜けた格好。

少しだけ若く見える。少しだけ近く見える。


「いや、俺も今来たとこだから」


 嘘だ。俺は一時間前からこの辺をうろうろしている。

 でも、こういう嘘をつく自分が、妙に人間っぽくて嫌いじゃない。

 小さな嘘をついた瞬間だけ、俺は少し若返って、すぐに現実に戻った。


 彼は、それ以上突っ込まなかった。

 その代わり、少し照れたように笑った。


「じゃあ、行きますか。予約、ありがとうございます」


 丁寧な言い方。

 言葉の間に、一拍の慎重さがある。

 この人も緊張しているのかもしれない――そんな希望が、胸に差し込む。


 店へ向かって歩き出す。

 歩幅が少し違う。俺が無意識に歩調を合わせると、彼も少しだけ速度を落とした。

 その小さな調整が、嬉しい。

 嬉しいのに、嬉しいと感じた瞬間、怖さも一緒にやってくる。


「……俺、こういうの久しぶりで」


 彼が、ふっと言った。

 世間話の延長みたいな声。

 でも、その一言の中に重さがあるのが分かる。


「……俺も」


 言った瞬間、胸のどこかが熱くなって、すぐに冷えた。

 同じ言葉なのに、安心と怖さが一緒に来るのが中年だ。


「最近、仕事どうですか」


 彼が話題を振る。

 俺も返す。無難に返す。

 仕事、趣味、食べ物。

 当たり障りのない会話が続くほど、「このまま何も起きずに終わるかもしれない」という不安が育つ。


 店が見えてきた。

 遠くから、笑い声とBGMが先に届く。

 嫌な予感が、音になって耳に入ってくる。


 扉を開けた瞬間、熱気が顔にぶつかった。


「いらっしゃいませー!」


 声が明るすぎて、逆に疲れる。

 店内は満席で、テーブル同士が近い。

 笑い声が上からも横からも飛んでくる。

 BGMが会話の上に乗っかって、どこまでが自分たちの声でどこからが他人の声か分からなくなる。


「ここ、人気なんですね」


 彼が言う。

 聞こえるように少し身を乗り出してくるけど、声量は上げない。

 この人は、無理に自分を変えない人なのかもしれない。

 それはいいことでもあり、今日みたいな場では苦しいことでもある。


「うん……評判、良かったから」


 評判。

 食べログ。

 星。

 レビュー。

 そういうものに頼って店を選んだ自分が急に薄っぺらく感じる。


 メニューを開く。文字を追う。

 会話が途切れそうになるたび、俺はメニューを読む。

 逃げだ。

 逃げている、と分かっているのに、逃げる。


 彼が何か言う。聞き取れない。

「ごめん、もう一回」

 言って、彼が言い直す。

 それでも一部聞こえない。

 聞き返すたびに、申し訳なさと恥ずかしさが積み重なる。


 料理が来る。確かに美味しそうだ。

 でも俺の口は、味を拾うより先に、次の話題を探している。


 沈黙が落ちる。

 隣のテーブルの笑い声が、その沈黙を踏みつける。

 氷がグラスの中でカランと鳴って、やけに大きく聞こえる。


 彼が店員に声をかけた。


「水、もう一杯いただけますか」


 その声が、どこか疲れているように聞こえてしまった。

 俺といて疲れたのかもしれない。退屈してるのかもしれない。

 そう思った瞬間、心の中で勝手にレビューを書き始める自分がいる。


――星、二点。会話、崩壊。

 やめろ。今、レビューを書くな。心の中で。


「……そろそろ、出ようか」


 予定よりずっと早く、俺が言ってしまった。

 逃げたかったのか、立て直したかったのか、自分でも分からない。

 彼は少し驚いた顔をしたあと、「そうですね」とうなずいた。


 会計をして、外へ出る。

 夜風が冷たくて、救いみたいだった。

 店の熱気が体から抜けていく。呼吸が、ようやく深くなる。


 俺は一度、息を吸った。言葉を整える。

 謝る前に、いつもそうする。


「お店、失敗した。ごめん。

……悪い、変な言い方した。俺が勝手に焦って」


 言い終わると、胸の中が少しだけ空になる。

 彼は、少し目を丸くして、それから小さく笑った。


「そんなことないですよ」


「いや、でも……全然ゆっくり話せなかったし」


「……たぶん、俺たち、緊張しすぎてただけだと思います」


 彼はそう言って、少しだけ肩をすくめた。


「若い頃みたいに、構えずに行けばいいのに。

歳とると、変に力入っちゃいますね」


 その言葉が、やけに刺さった。

 刺さったのは、彼が正しいからだ。

 そして、それを言えるだけ彼も同じ場所にいるからだ。


「……俺も。

恋愛とか、デートとか、そういうのから、ずっと逃げてた」


 言った瞬間、重い話を持ち出した自分に後悔しかける。

 でも彼は、否定もしないし、笑いもしない。


「逃げてたけど、今日、来たわけですよね」


「……うん。酔った勢いもあったけど」


「勢いでも、ありがたいです」


 その言い方が、丁寧で、ちょっとだけ寂しく聞こえた。

 外の空気は冷たいのに、胸の奥だけが少しほどけた。


 駅の方へ戻ろうとして、足が止まる。

 このまま解散した方が楽だ。期待も、責任も、背負わなくて済む。

 中年の夜は、そういう“安全な終わり方”を簡単に選べる。


 彼が、少しだけ視線を泳がせて言った。


「このまま帰っちゃうの、ちょっと……もったいないですね」


 俺は、うまく返事ができなかった。

“もったいない”の意味が、怖かったからだ。

 期待していいのか。期待してはいけないのか。


「もしよかったら、俺の行きつけのバー、行きません?

 この近くにある、普通のバーなんですけど。雰囲気が良くて、よく行くんです」


 駅とは逆方向を指さす。

 その指先が、俺の逃げ道をふさぐ。

 駅と逆。帰れるのに帰らない方向。

 怖い。

 でも、今夜だけは進んでみたくなる。


 俺はスマホをポケットの奥にしまった。

 既読も、通知も、見ない。

 見たら、逃げる言い訳に使ってしまいそうだから。


「……行こう」


 足音が二つ並ぶと、沈黙が少しだけ怖くなくなる。

 彼は歩幅を合わせてくれる。俺も合わせる。

 その小さな調整の積み重ねが、今日のいちばん優しい会話だった。


 ビルの二階。小さな看板。

 ドアを開けると、ベルが静かに鳴った。


「いらっしゃい」


 店内は暗すぎず、明るすぎず、声がちゃんと届く静けさがある。

 カウンターに客が一人。

 グラスが置かれる音が、きれいに響く。


 彼は馴れた様子でカウンターに座った。

 俺も隣に座る。

 ここでは、さっきの店みたいに無理をしなくていい気がした。

 声のトーンが自然に落ちる。


 マスターが彼の顔を見て、少しだけ笑った。


「今日は珍しいね。お連れさん?」


 彼は一拍置いて、目を逸らしてから戻して、照れくさそうに言った。


「……まあ、そんな感じです」


“そんな感じ”。

 前向きにも、予防線にも聞こえる便利な言葉。

 その曖昧さが、今の俺にはちょうどいいのかもしれない。

 でも同時に、胸の奥に小さな棘を残す。


 乾杯をして、少しずつ話が深くなる。

 仕事の話は、さっきより少し具体的になる。

 趣味の話は、さっきより少し個人的になる。

 沈黙が落ちても、さっきみたいに怖くない。


 彼はグラスの縁を、指でそっとなぞる癖があるらしい。

 緊張が残っている証拠みたいで、妙に安心した。

 俺だけじゃないんだ、と思えるから。


「最後に付き合ってた人とは……どう終わったんですか」


 彼が静かに聞いてきた。

 聞かれると思っていなかったわけじゃない。

 でも、聞かれるとやっぱり一瞬息が止まる。


「……フェードアウト、かな。

忙しいって言い訳して、連絡減らして。

向こうも何も言わなくなって。

気づいたら、どっちも『なかったこと』にしてた」


 言葉にすると、情けなさが露骨になる。

 彼はうなずきながら、コースターの端を指で押さえていた。


「分かります。

終わらせるのって、エネルギー要りますもんね」


「そうだね。

だから、もう一回始めるのも、同じくらいエネルギーいる」


 俺がそう言うと、彼は小さく笑った。


「でも、こうやって誰かと隣で飲んでると、

まだ使い切ってないエネルギーもあるのかなって思えます」


 その言葉は、優しい。

 でも、決定的に甘くはない。

“思えます”で止まる。断言しない。

 中年は断言が怖い。断言した瞬間、その通りにならなかったときの反動が痛いから。


 時計を見ると、終電が近い。

 俺は「そろそろ」と言いかけてやめた。

 言った瞬間、この夜が終わる気がしたからだ。


 彼が視線を落として、ためらうみたいに口を開いた。


「迷惑じゃなかったら……うち、来ます?」


 言い方が不器用で、可笑しくなるくらい真面目だ。

 でも、その真面目さが、俺の中の何かを押した。


「……うん、行きたい」


 そう言った自分の声が少し震えていて、俺は気づかないふりをした。

 断らない勇気より、期待しない努力の方が難しい。

 それを俺は知っている。


 彼の部屋は、驚くほど整っていた。

 必要なものだけが、必要な場所にある。

 生活感はあるのに、余白が多い。

 歯ブラシは一本。

 マグカップは二つあるのに、コースターは一枚しかない。


 その“足りなさ”が、彼の一人の時間の長さを物語っているようで、胸が少しだけ痛んだ。

 痛いのに、目をそらせない。


 夜のことは、細かくは書かない。

 書く必要もない。

 大事なのは、眠りに落ちる直前、彼の体温がすぐ隣にあったこと。

 そして俺が、心の中でこう願ったことだ。


――この朝が、何かの始まりだったらいいのに。


 その願いが、若い頃みたいに無邪気じゃないのも分かっている。

 薄くなって、何度も折りたたまれて、すぐ破れそうな希望。

 それでも願ってしまうのが、人間だ。


 目が覚めると、薄い光がカーテン越しに入っていた。

 時計は早朝。

 静かすぎて、世界がまだ始まっていないみたいな時間。


 隣を見ると、彼が眠っている。

 寝顔は少し幼い。

 昨夜の真面目な顔より、肩の力が抜けている。


 俺は手を伸ばしかけて、止めた。

 触れたら、この距離が現実になってしまう気がした。

 現実になった瞬間、守らなきゃいけないものが増える。

 中年は、それが怖い。


――こういう感覚、いつ以来だろう。


 いとおしい、と思った瞬間、

 その気持ちを失う未来まで一緒に想像してしまうのが、中年の悪い癖だ。


 彼が目を開けた。


「あ……おはようございます」


「おはよう」


 短い挨拶のあと、沈黙が落ちる。

 昨夜はあんなに近かったのに、朝は少し距離が戻る。

 それが自然なのか、それとも“戻した”のか、俺には判別がつかない。


「コーヒー、淹れますね。インスタントですけど」


 彼はそう言って起き上がった。

 キッチンからカップとスプーンの音がする。

 その生活の音が、胸にじんわりしみる。

 嬉しい。

 でも同時に、自分が“客”であることもはっきりする。


 コーヒーを飲み終えたころ、俺は「そろそろ」と言う準備をした。

 この部屋に長くいればいるほど、期待が増える。

 期待が増えるほど、怖さも増える。


 玄関で靴を履きながら、彼が言った。


「また、バーで会いましょう」


 安全な距離の言葉だと思った。

 バーなら、偶然でも必然でも会える。

 定義を迫られない。

 続くとも言えるし、終わるとも言える。


 俺はドアノブに手をかけたまま、一度だけ振り返った。


「……よかったら、またご飯も行こう。

今度は、もうちょっと静かな店で」


 彼は少しだけ驚いた顔をして、曖昧な笑顔を浮かべた。


「……タイミングが合えば」


 便利な言葉。

 前向きにも、予告にも聞こえる言葉。

 胸の奥に、また小さな棘が残る。


「うん。タイミング、ね」


 俺はそれ以上言わなかった。

 言えば言うほど、何かを決めなきゃいけなくなるからだ。


 外に出ると、朝の光がビルの隙間から差し込んでいた。

 街が起きる前の静けさの中で、俺だけが“昨夜”を持ち歩いている。


 久しぶりの朝帰り。

 身体は重いのに、胸のあたりだけが落ち着かない。

 この先、何度かバーで会うのかもしれないし、

 そのうち「忙しくてさ」が合言葉になって、自然と会わなくなるのかもしれない。


 どちらになってもおかしくない。

 若い頃みたいに「きっと上手くいく」とは思えない。

 同じくらい、「どうせ上手くいかない」と決めつけることもできない。


 ポケットの中のスマホが、やけに重く感じた。

 俺は取り出して、彼の名前のついたトーク画面を開き、短い文を打つ。


「昨日はありがとう。また飲もう。」


 送信して、画面を見つめそうになる。

 既読が付くかどうか確認したくなる。

 人は、確認するためにスマホを持ったんじゃない。

 でも俺は、確認するために持ってしまう。


 画面の上には、俺の短い文。

 その下に、何も起きない余白。


――まだ、付かない。


 時間の問題だ。

 相手だって眠いかもしれないし、シャワーでも浴びているかもしれない。

 そうやって理由を並べるほど、俺の指は小さく震えてくる。

 理由はいつも、安心のためじゃない。

 傷つかないための、予防線だ。


 俺は、スマホをポケットの奥にしまった。

 見ない。

 見たら、数字ひとつで一喜一憂して、勝手に結論まで作ってしまう。

 中年は、自分で自分の最悪を作るのが上手い。


 駅へ向かう道には、まだ昨夜の光が残っていた。

 店の前にぶら下がった飾り。ビルの壁をなぞる白い明かり。

 どれも綺麗で、綺麗すぎて、少し刺さる。

 眩しい、と思う。

 それは、光のせいだけじゃない。


 沈黙が、重い。

 重いのに、救いでもある。

 この沈黙の間は、まだ「終わった」と決まっていないからだ。

 決まっていない、というだけで、人は少しだけ生き延びられる。


 改札の前で、立ち止まりそうになって、やめた。

 ここで取り出したら、たぶん見てしまう。

 既読が付いていなかったら、俺は笑ってしまう。

 笑って、「やっぱりな」と言って、傷ついたふりをして、先に諦める。

 それが一番楽だと知っているから、余計に危ない。


 だから、今日はやめる。

 確認しないまま、電車に乗る。

 希望を薄く折りたたんだまま、ポケットに入れて持ち歩く。

 破れそうな紙を、あえて開かない。


 朝日が真正面から差し込んで、目が痛い。

 眩しさが刺すみたいで、思わず目を細める。


「眩し……」


 でも、悪くない痛みだと思った。

 何も感じない朝よりは、よほどましだ。


 電車が来る。

 俺は一歩、乗り込む。

 ポケットの中で、まだ“既読の付いていない”スマホが、やけに重いままだった。

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