第2話 手を貸すな、と言ったのに
街の外れ、灰色の岩山へ向かう道は、乾いた風が吹く。道端の草は短く、空は広い。子竜は肩の上で眠り、尻尾だけがマレクの首をくすぐる。
「くすぐったいけど、かわいい」
「甘い。竜は甘やかすと増長する」
「子どもだよ」
「竜の子どもは、竜だ」
ワルシクは前を歩きながら、時々だけ振り返る。鋭い目が、背後の気配を探る。
「尾けられてる?」
「うん。三人。足音が下手」
「わざと聞かせてる。……来たか、“竜の王座を奪う者”の手先」
ワルシクが言った瞬間、岩陰から男が飛び出した。短剣を構え、声を張る。
「その竜を渡せ! 首輪が目印だ!」
マレクは荷車の取っ手を離さず、笑顔のまま前に出た。
「話し合おう。ほら、君ら、喉乾いてない?」
「ふざけるな!」
短剣が振り下ろされる――が、その腕が途中で止まった。
ワルシクが男の背後に回り、短剣の柄を二本の指で押さえている。動きが読めないほど速い。目が笑っていない。
「交渉。あなたの親玉の名を言いなさい。言えば指は折らない」
「ひっ……!」
マレクが咳払いして、場を和らげるように言った。
「折るのは後でいい。今は情報」
「後でも折らない」
ワルシクの返事が即答すぎて、男の顔がさらに青くなる。
男は震えながら吐いた。
「王都の……宰相補佐だ! 竜の“鍵”を集めてる! 王座を、手に入れるために!」
言い終えると、男は逃げるように走り去った。残りの二人も続く。
マレクは息を吐く。
「怖いくらい頼もしいね」
「褒めても財布は返さない」
「もう返してもらったよ」
「いつの間に」
「君が男の背後に回った時」
ワルシクは舌打ちを飲み込んだ。悔しい。
岩山の裂け目に、古い石門が見えた。門には掌の形が二つ彫られている。左右にひとつずつ。
ワルシクが眉をひそめた。
「……手形か」
「触らないと開かないやつだ」
「触るなって言った」
「僕は触るよ。石だし」
「私が触るなと言ったのは、私に。……私に触るな」
ワルシクは門の文字を読む。古代竜語だ。彼女は少しだけ読める。理由は言わない。
「“二つの掌が重なり、道が開く”……二人必要」
「じゃあ、僕と君で――」
「無理」
マレクは笑顔を崩さず、だが声だけは丁寧にした。
「竜を守るためだよ。子竜をここに残して王都へ行く? それも無理」
ワルシクは唇を噛む。子竜が目を覚まし、「きゅ」と鳴いた。首輪の『竜の王座を奪う者』がまた微かに光る。
ワルシクの手のひらが、痺れるように冷える。過去の感触が戻ってくる。
誰かに手を握られた瞬間、世界が崩れた記憶。
だから言ったのだ。「一生他人でいて下さい」と。
マレクが、門の右の手形に手を当てた。石がぬるく光る。左が空白のまま、光は途中で止まった。
ワルシクは歯を食いしばり、袖を引っ張って自分の手を隠す。指先が震える。
子竜が、彼女の膝に頭を擦り付けた。小さく、必死に。
ワルシクは、ふっと笑いそうになった。笑えないのに、胸の奥だけが柔らかくなる。
「……あんた、ずるい」
彼女は袖の中から手を出した。掌を門の左の手形へ――置く直前、マレクが視線を外した。見ない。圧をかけないために。
頼もしいのに、優しい。余計に腹が立つ。
ワルシクは手を置いた。
石がぱっと明るくなる。
同時に、二人の掌から熱が走った。
視界が白く弾け、耳の奥で翼の音が鳴る。
――見えた。
巨大な竜の玉座。金属でも木でもなく、黒い結晶が積み上がった椅子だ。そこに座るべき竜は、鎖で縛られ、地面に伏せている。
代わりに人間が座っている。笑っている。指には、竜の鱗を嵌めた指輪。
その男が言った。
『手を差し出せ。王座は、手に入れるものだ』
次の光景は、もっと近い。
幼いワルシクが、誰かに手を掴まれている。掴んだ相手は見えない。だが声は、同じだ。
『役に立て。お前の手は、嘘を剥ぐ』
ワルシクは息が詰まった。自分の能力――手を触れると、相手の本音が泡みたいに浮かぶ。だから狙われた。だから逃げた。だから「他人」でいることにした。
白い視界が戻る。石門が、重い音を立てて開いた。
ワルシクは手を引っ込めるように離し、掌を握りしめる。
マレクが振り返る。笑顔はある。でも、軽くない。
「今の、見た?」
「……見た」
「王都の宰相補佐、黒い結晶の玉座、指輪……」
「そして、私の……」
ワルシクは言葉を切った。言えない。まだ言えない。
マレクは、子竜を抱え直した。今度は両腕で包み、落とさないように。
「行こう。王座を“奪う者”の手から、返そう」
ワルシクは小さく頷く。
それでも、つい口が出た。
「……一生他人でいて下さい」
「うん」
マレクは笑った。
「でも、今は“同じ門を開けた他人”だね」
「屁理屈」
「僕の得意技」
ワルシクは、思わず口元だけ動かした。笑ったのか、歪んだのか、自分でもわからないまま、石門の奥へ足を踏み入れた。
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