一生他人でいて下さい――竜の王座と、貸した手

mynameis愛

第1話 笑顔の男と、触れたくない女

 市場の真ん中で、ひときわ明るい声が跳ねた。

「おじさん、その干し肉、昨日は銀貨一枚って言ってたよね?」

 声の主はワルシク。細い指で値札をつまみ、にこりともせずに相手の目だけを見ている。笑っていないのに、圧だけで空気が甘くなる。屋台の親父が喉を鳴らした。

「き、今日から値上げだ。旅人が増えて――」

「増えたなら仕入れも回る。つまり値下げできる。ね?」

 言葉が刃なのに、声は柔らかい。親父は観念したように銀貨を受け取った。


 その横を、やけに爽やかな男が通り過ぎた。マレクだ。いつも口角が上がっている。困りごとがあっても、なぜか笑顔が先に出る。

 彼は荷車を引いていた。異世界に落ちてから、彼の「元の世界の知恵」は、だいたい荷運びの工夫と小ネタに化けた。滑車、紐、段ボールっぽい紙箱。それがこの街では妙に受ける。


 ――その荷車の後ろで、軽い音がした。

 財布の紐がほどける音。


 マレクは振り返らずに言った。

「返して」

 笑顔のまま。


 ワルシクの手が止まった。盗む瞬間の自分の指先は、いつも計算通りに動く。なのに、今は「掴んだはずの獲物」が妙に重い。

「……気づいてたの?」

「うん。君の手、速い。だけど癖がある」

「癖?」

「盗る前に、一回だけ親指で紐を撫でる」


 ワルシクは舌打ちしそうになり、やめた。目の前の男は怒っていない。むしろ、さっきより笑っている。

「笑ってる場合?」

「笑ってる方が話が早い」


 その瞬間、屋台の串焼きが宙を舞った。

 小さな影が、肉をくわえて走る。鱗の光が日差しを弾く。尻尾がぴん、と跳ねた。


「……竜?」

 ワルシクの声が一段低くなる。


 子犬ほどの竜が、肉をくわえたまま市場を駆け抜けた。追いかけた屋台の親父が転び、串が刺さりそうになった瞬間――マレクが前に出て、親父の肩を掴んで引いた。

「危ない!」


 助けられた親父は、泣きそうな顔で礼を言う。マレクは笑う。

「大丈夫。ほら、串は折れてない」


 ワルシクは、竜を見ていた。小さな首に、古い革の首輪。そこに焼け焦げた文字が残っている。


『竜の王座を奪う者』


 縁起の悪い文だ。しかも、子竜がそんな札を付けているのが異様だ。

 ワルシクは首輪を外そうとして、指を止めた。……触れない。触れたくない。


 マレクが竜に近づいた。手のひらを見せ、ゆっくり屈む。

「こっちおいで。肉、返そう」

 子竜は警戒しつつも、マレクの手の匂いを嗅いだ。次の瞬間、串焼きをぽとりと落とす。


 ワルシクが小声で言う。

「……なんで噛まれないの」

「噛まれても、痛い顔するのが嫌いだから」

「意味わかんない」


 竜は、マレクの指先をぺろりと舐めた。すると首輪の文字が、かすかに光る。

 ワルシクは息を呑んだ。手のひらの奥が、ひやりとする。


「それ、まずい札だよ」

「知ってる。だから外したい」

「……一生他人でいて下さい」

 ワルシクは言い切った。自分でも唐突すぎると思うのに、口が止まらない。


 マレクは首を傾げる。

「今の、何のお願い?」

「お願いじゃない。忠告。私に近づくな。特に――手で触るな」


 マレクは、子竜を抱き上げる手を止めた。笑顔が、ほんの少しだけ薄くなる。

「……君の手、冷たいの?」

「冷たいとか、そういう話じゃない」

 ワルシクは首輪の文字を見つめたまま、短く言った。

「その竜、誰かが“王座”に使う。奪うために。小さくても、竜は竜。血は鍵になる」


 マレクは、笑顔を戻す。

「じゃあ、奪われる前に返そう。王座の持ち主に」

「簡単に言う」

「簡単に言うと、動きやすい」


 子竜がくしゃみをして、火の粉をちょびっと飛ばした。

 ワルシクの髪が焦げかけ、マレクが指でぱっぱっと払う。

「ほら、火花」

「触るなっ!」

 ワルシクが跳ね退く。マレクは両手を上げて、笑った。

「ごめん。反射」


 その反射が、頼もしい。悔しいほどに。

 ワルシクは視線を逸らし、子竜に向かって言った。

「……ついて来い。首輪の文字、消してやる。消せなきゃ、焼き切る」

 子竜が「きゅ」と鳴く。


 マレクが頷く。

「じゃあ、僕は荷車を押す。君は……手を使わずに案内して」

「できる」

「さすが」


 ワルシクは歩き出した。背中越しに、また言う。

「一生他人でいて下さい」

「……うん。いったんは他人でいる」

 マレクは笑って、子竜を肩に乗せた。

 その小さな重みが、これからの道を決めた気がした。

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