第三話 雨の止み際、笑う声
地下鉄のホームは、雨の日の湿気で人の匂いが濃かった。天井のスピーカーから流れる案内音が、やけに大きく響く。
遥は柱の影からホームを見渡す。龍生は少し離れて、改札側を見ていた。彼は“長期的な視点”とやらで、逃げ道まで先に潰すつもりらしい。
龍生の手には、駅の構内図を印刷した紙がある。赤ペンで矢印だらけ。
「なにその地図」
「非常階段、エレベーター、案内所。人が集まる場所を先に押さえると、混乱が減ります」
「混乱が減ると、私が殴りやすい?」
「殴る前提で話さないでください。……でも、動きやすくはなります」
「……大げさ」
「大げさに見える準備は、被害を小さくします」
「私は、準備より早さ」
「あなたの早さを生かすために、僕が準備します」
その言い方が、少しだけずるい。遥は言い返せなくなる。
ホームのベンチに、濡れた猫が丸まっていた。誰かが置いた紙袋の影。遥は近づき、そっと指を差し出す。
猫は一瞬だけ手を嗅いで、すぐに目をそらした。遥と同じだ、と自分で思ってしまい、遥は小さく笑う。
「……濡れるのは慣れてる、か」
独り言が漏れた瞬間、龍生がこちらを見た。
「猫にも言ってます?」
「違う」
照明が一度だけ瞬いた。
次の瞬間、ホームの端で、少女が声を失って膝をついた。周囲の人が集まり、ざわめく。
そのざわめきの隙間を縫って、マスク男が現れた。カセットレコーダーを高く掲げる。
「さあ、喋れ。心の中を。言葉が刃になる夜だ」
男が再生を押す。
スピーカーから流れたのは、無数の独り言。知らない人の弱音、怒り、後悔。
それらが形を持ち、ホームの空中に刃や鎖として浮かび始める。
遥は走り出した。誰も傷つけさせない。自分が止める。
だが、刃が乱れ飛び、足元に“迷い”の縄が絡む。
『助けてほしい』
『でも言えない』
『ひとりで……』
誰かの心の声が、遥の足を引く。重い。息が詰まる。
遥は思わず、吐き捨てるように言った。
「うるさい……!」
その声が、巨大な水槌になって天井へ跳ね返った。天井の配管が震え、雨水が一気に落ちてくる。
ホームが小さな滝になる。人が悲鳴を上げかけ――声が出ない。混乱が増す。
「遥さん、声を抑えて! あなたの言葉が――」
「わかってる!」
わかっている。でも止められない。焦るほど、独り言が増える。
マスク男が笑い、録音を変えた。今度は――遥の声。
『龍生、支えて』
その言葉が、今度は鎖になって龍生の腕を縛った。支援の手が封じられる。
遥の胸が凍る。自分が頼った言葉が、味方を縛る。
遥は、昔の光景がよぎった。
雨の路地。自分の言葉で誰かが無茶をして、傷ついた。だから――もう、頼らないと決めた。
決めたはずなのに、今は目の前で人が声を奪われている。
「……私のせいだ」
そのつぶやきが、重い鉄球になって床へ落ちた。足元が沈み、遥がよろける。
マスク男が嗤う。
「ほら。独り言は便利だ。勝手に自分を縛ってくれる」
遥は歯を食いしばる。自分で自分を縛るのは、もう飽きた。
その瞬間。
「――あとは俺に任せろ!」
横合いから、誰かが割って入った。
濡れたジャンパーの男。短髪で、笑い方がうるさい。
龍生の友人――日向シン。龍生が“準備”の一環で呼んでいたらしい。
「シン!? なんでここに」
「呼ばれたからだよ。『地下鉄で声が刃になる』って、意味わかんねえメッセ来たぞ。あと駅員さんに怒られた。走るなって」
「自業自得」
シンは自分の胸を叩いた。
「俺の異能は“割り込み”。流れに割り込んで、因果の順番をちょいとズラす。ほらな」
シンが指を鳴らすと、龍生を縛る鎖の“発生順”がずれた。鎖が空中でほどけ、龍生の腕が自由になる。
同時に、遥の足元に落ちた鉄球も、少しだけ軽くなった。
「便利すぎ……!」
「便利だから友だちなんだろ」
シンは笑い、遥の前へ立った。刃が飛んでくる。シンは肩で受け――痛みに顔をゆがめながらも、前へ出る。
「遥ちゃん、考えすぎ! 独り言は俺が受ける。お前は、助けたい相手の顔だけ見ろ!」
「……私、ちゃん付けされるほど仲良くない」
「今から仲良くなるんだよ。雨の日は音が集まる、だろ? じゃあ笑い声も集めてやる!」
龍生が、息を整えた遥の横へ並ぶ。彼の目は、いつもの穏やかさのまま強い。
「遥さん。あなたの優しさは、武器にされても消えない。なら――優しさを“盾”にしましょう」
「優しさを、盾……?」
龍生がポケットから、濡れないようジップ袋に入れた紙束を出した。付箋だらけ。
そこには、遥がこれまで口にした“本当の言葉”が書かれていた。
『大丈夫』
『もう平気』
『泣いていい』
『ひとりじゃない』
『転ぶな』
『走るな』
「最後の二つ、優しさじゃなくて説教だろ」
シンが突っ込み、龍生が真顔で返す。
「命を守る説教は、優しさです」
「うわ、強引」
遥はふっと笑った。笑うと、胸の鉄球がさらに軽くなる。
「……いつ書いたの」
「あなたが誰かを助けた時。未来のあなたのために」
遥の喉が熱くなる。こんなふうに、誰かが自分の言葉を拾っていたなんて。
遥は頷き、言った。今度は、はっきりと。
「ひとりじゃない」
その声が、柔らかな雨幕になって広がった。刃は雨幕に触れると、形を失い、水に戻る。
鎖もほどけ、声を失っていた人たちが息を吸う。
「……声、出る……!」
「よかった……」
マスク男が焦り、レコーダーを叩いて音量を上げる。しかし雨幕が音を吸い、独り言は刃になりきれない。
遥は一歩ずつ近づき、マスク男の手からレコーダーを奪った。
「人の心を盗むな」
「心は、勝手に漏れるだろ! 独り言なんて――」
「漏れても、拾い方がある。あなたのは踏みにじる拾い方」
遥がレコーダーを床へ置く。龍生が素早くケーブルで縛り、シンが親指を立てた。
その時、駅員の笛が鳴り、避難誘導が始まった。声を取り戻した人たちが、互いに名前を呼び合う。
その音が、ホームを明るくする。
「二人とも、かっこよ。俺、出番もっと欲しい」
「肩、血出てる」
「それは後で見せる。今は、ヒーロー面」
「病院、行け」
「はいはい、龍生先生」
軽口に、遥は耐えきれず笑ってしまった。笑い声が、雨幕をさらに柔らかくする気がした。
ホームの端で、さっきの少女が小さく手を振っている。声が戻ったらしい。
「ありがとう……!」
遥は手を振り返し、龍生を見る。
「……助かった」
「こちらこそ。あなたが言ってくれたから、支えられました」
「……また、支えてって言うかもしれない」
「何回でも」
駅を出ると、雨は小降りになっていた。商店街の軒先に、昨日と同じ場所がある。
遥はふっと立ち止まり、言う。
「雨が止むまでは此処で」
「名言になってますね」
「……今日は、独り言じゃない」
軒先の猫が、いつの間にかついてきていた。遥が手を差し出すと、猫は今度は逃げず、指先に鼻を押し付けた。
龍生とシンが顔を見合わせ、同時に笑った。
遥も笑う。笑い声が雨音に混じり、どこかへ流れていく。
そして、空が少しだけ明るくなった。
雨の日、独り言は刃になる mynameis愛 @mynameisai
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