第二話 独り言の刃
翌日も雨だった。遥は自分でも理由がわからないまま、駅前のコンビニへ足が向いていた。
龍生はレジの奥で、賞味期限シールを貼っている。振り向いた瞬間、彼はすぐ気づいた。
「おはようございます。今日は転ばない日ですか?」
「……用はない。たまたま」
「たまたま、二日連続。確率、好きです」
「好きじゃない」
遥は反論しようとして、やめた。龍生に言い返すと、負けた気分になる。なぜか。
棚の前で、年配の男性が小銭を落とした。遥が拾おうとすると、龍生がすっと先に拾い、男性の手のひらへ返した。
「足元、滑りますから」
たった一言。だが男性の表情がほどける。龍生の支援は、戦いの場だけじゃない。
「……あなた、優しいのね」
「仕事です。あと、こういう小さい積み重ねが、あとで大きい事故を減らす」
そこへ、店のガラスが一瞬曇った。外の雨が、急に“横”へ流れている。
遥と龍生が同時に外へ出ると、通りの真ん中で、人が立ち尽くしていた。傘を差したまま、口をぱくぱくさせ、声が出ない。
「……声が、抜けてる」
「昨日の雨盗みとは別口ですね。こっちは、“言葉”を盗む」
龍生の眼差しが鋭くなる。遥は思わず問い返した。
「知ってるの?」
「都市の異能って、流行みたいに広がるんです。今、SNSで『独白(どくはく)に気をつけろ』って」
「独白?」
「独り言を、現実にするやつがいる」
ふざけた話だ。だが、目の前の被害者は笑っていない。声を失い、恐怖で震えている。
遥は被害者の肩に手を置き、ゆっくり息を合わせた。
「大丈夫。指で数える。いま、息を吸って……」
声が出ない相手には、声以外の助け方がある。遥は指を一本、二本、と立て、呼吸のタイミングを示した。
被害者の肩の震えが、少しずつ収まる。
その瞬間、背後で“ぱちっ”と音がした。
遥が振り向くと、路上の水たまりから、細い水の槍が立ち上がっていた。槍の先端が、遥の髪をかすめる。
「……今の、私の声?」
「たぶん。あなたが言いかけた言葉が、刃になった」
龍生が低く言う。遥は背筋が冷える。優しい言葉すら、武器にされる。
雨粒の向こう、歩道橋の下に男がいた。黒いマスク。手には、古いカセットレコーダー。
男がボタンを押すと、スピーカーから誰かのつぶやきが流れた。
『やめて……怖い……』
同時に、空中に透明な鎖が生まれ、通行人の足首へ絡みつく。悲鳴が出ない。声が奪われているからだ。
「くっ……!」
遥は水の刃で鎖を切ろうとするが、鎖は“言葉”でできているせいか、切れ味が鈍る。
そこで龍生が、急に口元に指を当てた。
「喋らないで。喋るほど増える」
「……じゃあ、どうやって」
「ジェスチャー。あと、紙」
龍生はコンビニのレシートを何枚も持ってきていた。いつの間に。
遥は呆れたが、妙に感心もした。
「準備がいい」
「長く生きるコツです」
遥は頷き、レシートに大きく書く。
『右から行く』
龍生が親指を立てる。その動きが妙にまじめで、遥は笑いそうになる。こんな緊迫した場面で、ジェスチャーが妙にかわいい。
だが次の瞬間、マスク男が録音を切り替え、ホームビデオのような雑音の中から、遥の声を再生した。
『……ひとりで十分』
その言葉が、空中で硬い盾になり、遥の前へ壁を作る。自分の頑固さが、敵の防具になるなんて。
遥は苛立ちで喉が熱くなる。言い返したい。でも喋れば刃が増える。
遥はレシートを握りつぶし、次の紙に走り書きした。
『最悪』
その“最悪”が、なぜか小さな雨粒の爆弾になって足元で破裂した。びしょ濡れになり、遥は思わず声を出しかける。
「っ……!」
龍生が慌ててレシートをかざし、そこに短く書いた。
『落ち着け』
またその付箋めいた言葉。安っぽい。でも、効く。遥の呼吸が整う。
龍生が、次の紙を出した。
『頼る=負け?』
遥は歯を食いしばり、ペンを取る。答えを文字にすると、余計に本心が見える。
『負けたくない』
書いた瞬間、胸がちくりとする。負けたくない相手は、敵じゃない。自分だ。
遥は次の紙に、手が震えないよう押さえながら書く。
『龍生 支えて』
龍生の目が笑った。彼は小さく頷き、支援を走らせる。
遥の足取りが軽くなり、盾の隙間が見える。
遥は雨粒を糸のように細く編み、レコーダーのスピーカーへ突き刺した。音が途切れた瞬間、鎖がほどけ、被害者の喉が震えた。
「……た、す……け……」
「うん。もう大丈夫」
遥が微笑むと、被害者は泣きながら頷いた。声が戻っただけで、顔がこんなに変わる。
マスク男は舌打ちし、逃げようとする。だが龍生が静かに言った。
「あなた、次は地下鉄を狙いますね。雨の日は、音が反響するから」
男がぎくりとする。図星。
遥は驚いて龍生を見る。
「どうしてわかるの」
「さっき、あなたの独り言が教えてくれました。『次は地下だ』って」
「聞かないで」
「聞こえちゃうんです。雨の日は、音が集まるから」
遥は顔を背ける。けれど、背けた先で、声が戻った人が深く頭を下げていた。
遥は小さく手を振って応えた。頼るのは怖い。でも、助けるのは好きだ。
その二つが、今日だけ少し同じ方向を向いた。
マスク男は人混みの隙間へ滑り込み、歩道橋の階段を駆け上がった。遥は追う。龍生も続くが、彼は走り方がどこか不器用で、傘を持ったまま肩をぶつけそうになる。
遥は思わず腕を引いた。
「こっち! 転ぶ!」
「……はい」
階段の踊り場に着いた時、男の姿はもうなかった。代わりに濡れた段に、一本のカセットが転がっている。ラベルに太いマジックで『ホーム』。
龍生が拾い、眉を寄せた。
「地下鉄だ」
「やっぱり」
「……遥さん。さっき、紙で“負けたくない”って書きましたよね」
「……書いた」
「負けたくないのは、誰ですか。僕ですか。マスク男ですか」
「……自分」
遥は口の中が苦くなった。頼った言葉が鎖になるのが怖い。怖いから、先に拒む。
龍生は雨に濡れたカセットを、丁寧にポケットへしまう。
「僕の異能は、ひとりじゃ何も守れません。だから、人の近くにいる。近くにいるのが怖い日もあるけど――怖いまま近くにいるほうが、後悔が少ない」
「……後悔を、数えたことがあるの」
「あります。数えると増えるから、減らす方法を考えます。長期的な視点で」
遥は笑いそうになり、でも笑えなかった。代わりに、小さく頷く。
「じゃあ、次は……喋らない」
「はい。喋ったら罰ゲームにしましょう」
「罰ゲーム?」
「肉まん奢り」
「……高い」
「じゃあ、コーヒーでも」
「もっと安いのにしなさい」
二人はスマホのメモ画面を開き、会話を指で打つ練習を始めた。雨の歩道橋で、無言で画面を見せ合う大人二人。通りすがりの学生が二度見した。
別れ際、遥は口を開きかけた。
「……」
声にすると刃になるかもしれない。遥はすぐスマホのメモに打ち、龍生へ見せた。
『ありがとう 今日は』
龍生は指で丸を作り、同じ画面に打ち返す。
『こちらこそ 雨が止むまで此処で』
遥は鼻で笑い、傘の下へ一歩寄った。たった一歩。でも、昨日の自分ならしなかった一歩だ。
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