雨の日、独り言は刃になる
mynameis愛
第一話 雨宿りの相棒
東京の空は、朝からバケツをひっくり返したような雨だった。
遥はフードを深くかぶり、駅前の商店街を駆ける。視線の先に、黒いレインコートの男がいた。男の足元だけ、雨粒がふっと消えている。雨を“盗む”異能だ。盗まれた雨は周りに跳ね返り、路面が妙に滑る。追う側だけが転ぶ、いやな手口。
商店街の角で、小学生くらいの男の子が転びそうになった。遥は反射で手を伸ばし、ランドセルの肩ひもをつかんで引き戻す。
「危ないよ。……走るな」
男の子は目を丸くして、ぺこっと頭を下げた。すぐ後ろで母親が慌てて追いつく。
「すみません! ありがとうございます!」
「……どういたしまして」
礼を言われるのは、嫌いじゃない。けれど、足は止めない。礼を受け取っている間に、標的が消える。
遥は再び走った。
「……逃げ足だけは一丁前」
独り言が口からこぼれた瞬間、遥は舌を噛みそうになった。自分の声が、なぜかやけに大きく聞こえたからだ。
だが、足を止めない。誰にも頼らず、ひとりで片をつける。そう決めている。
胸の奥がざわつく。最近、「声を失う雨の日がある」と噂で聞いた。自分の声まで誰かの手の中に入るなら、面倒だ。
遥は雨粒の流れを感じ取る。自分の異能は水を刃にも縄にもできる。強いと言われることもある。でも、それは“ひとりで立てる”と同じじゃない。
誰かに背中を預けた瞬間、預けた相手を傷つけるかもしれない。そう思うと、自然と手が離れる。
路地へ曲がった男が、突然振り向いた。遥に向けて、濡れた手袋をぱちんと鳴らす。
次の瞬間、路面の水膜が一斉に横へずれた。氷の上みたいに、遥の足が空を切る。
「っ……!」
転倒――するはずだった身体が、なぜか踏みとどまった。
足元の水が、まるで“そこにいるべきだ”と主張するみたいに、動きを止めている。
「危なっ。滑る床って、ほんと性格悪いですよね」
聞き覚えのない声。遥が横を向くと、コンビニの前に立つ男が片手を上げていた。濡れた前髪の奥の目は、妙に落ち着いている。
名札には「龍生」。店員――にしては、状況に慣れすぎだ。
「あなた、誰」
「通りすがりの……と言いたいところですが、今は“味方”でいいです。雨、止むまで此処で」
男――龍生が、傘立ての陰を指した。軒先のわずかな乾いた場所。言い方が妙に自然で、遥は腹が立つより先に、なぜか笑いそうになった。
「勝手に決めないで」
「勝手に転ぶより、いいでしょ。あと、その人、向こうの排水溝に雨を溜めてます」
龍生の指先が、路地の奥を示す。確かに、マンホールから泡立つ水が逆流し始めていた。ここで追い詰めれば、近所の店が水浸しになる。
「……周りを見るのは得意なのね」
「長く生きるコツです。先の被害を減らすほうが、結果的に勝ちやすい」
遥は舌打ちしつつ、男の逃げ道を読んだ。排水溝へ回せば、雨盗みは水圧で自滅する。だが、その前に一般客が来る。
遥はフードの中で、そっと息を吐く。
「私が止める。あなたは客を中へ」
「了解。……って言うと、頼ったみたいで嫌です?」
「別に」
龍生はにこりと笑い、コンビニのドアへ走った。遥は路地へ踏み込む。男が水膜を操るなら、こちらは水そのものを“切る”。
遥の指が空をなぞると、雨粒が薄い刃になって並んだ。水の刃は、音もなく男の足元の水膜を裂き、滑りを消す。
男が目を見開く。
「なんだ、その……!」
「雨は、盗むものじゃない。みんなの上に同じように落ちるもの」
遥が一歩詰めた瞬間、男が最後の悪あがきに、溜めた雨を一気に放った。路地が濁流になる。
遥の体が押し流され――
「遥さん!」
龍生の声が飛ぶ。いつの間にか、彼は路地の入口に立ち、手を掲げていた。
濁流の中、遥の周りだけ水が“避ける”。まるで透明な壁があるみたいに。
「……あなた、異能?」
「支援系。相手の“成功しそうな動き”を、ちょっとだけ太くするんです」
遥はその言い方に、思わず吹き出した。
「なにそれ、地味」
「地味は、しぶといんですよ。あと、コンビニ店員って、地味に強い。熱いおでん鍋とか持ち上げますし」
「今それ言う?」
「緊張をほぐすのも支援です」
濁流が弱まった隙に、遥は水の刃を束ね、男のレインコートを地面へ縫い付けた。動けなくなった男は、情けない声を上げて座り込む。
龍生は男を警戒しつつ、スマホでどこかに連絡を入れた。会話は短い。店の外に出ていた客を安全な通りへ誘導し、濡れたベンチをタオルで拭く。
その動きがやけに手慣れている。
「……店員のわりに、判断が早い」
「バイトの前は、異能の相談窓口で雑用してました。書類と現場、両方見てると、こうなります」
「雑用、って言い方が弱そう」
「弱そうに見せておくと、相手が油断します。長期的な視点です」
遥は返す言葉が見つからず、濡れた髪を払った。すると龍生が、レジ横の紙タオルを一枚差し出す。
「顔、拭くと視界が良くなります。これも支援」
「……ありがとう」
礼を言いかけて、遥は咳払いをする。
「今のは、客として」
「はい。店員として受け取りました」
遥は思わず目を細めた。少しだけ、嫌いじゃない。
警報が遠くで鳴り、雨はまだ続く。だが、商店街の店先に人が戻り始めていた。
遥は濡れた袖で顔をぬぐい、龍生を見た。
「さっき、私の名前……」
「独り言で呼んでましたよ。自分の心の中で」
遥はぎょっとした。
「聞こえたの?」
「雨の日って、音が集まるから。……それに、あなたの声は、助けを拒むのに優しい」
その一言が、胸の奥に小さく刺さる。遥は目をそらした。
「私、ひとりで十分」
「じゃあ、今日は“ひとり+一人”で。雨が止むまでは此処で、って言ったでしょ」
龍生は傘を差し出した。コンビニのビニール傘。安物の透明が、やけにあたたかく見えた。
遥は受け取らず、代わりに軒先へ戻る。
「……傘はいらない。濡れるのは慣れてる」
「じゃあ、温かい肉まんは?」
「……それは、いる」
龍生が笑い、遥もほんの少しだけ口元を緩めた。
その時、さっきの男の子が母親と戻ってきて、遥を見つけた。
「お姉ちゃん! ありがとう! これ、あげる!」
差し出されたのは、キャラクターの絆創膏だった。雨で濡れないよう小さなビニール袋に入っている。
「……別に、けがしてない」
「けがしてなくても貼れるよ! ぼく、貼ったら強くなる!」
男の子の理屈に、遥は耐えきれず吹いた。
「……じゃあ一枚、もらう」
「やった!」
遥が袋を受け取ると、龍生が横で真面目な顔をした。
「それ、すごい支援アイテムですね」
「あなたの付箋よりは効きそう」
「痛い」
雨の音が、さっきよりやさしく聞こえた。
遥は受け取った絆創膏を一枚取り出し、わざと無傷の指の関節に貼った。
「ほら。強くなった」
「……似合ってます。今日の勝ちは、その絆創膏のおかげってことにしましょう」
「それはない」
言いながら、遥は貼ったまま外へ出た。剥がす理由が、まだ見つからなかった。
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