第4話

   

「ハッ、ハッ……」

 慌てて実験室から飛び出し、俺は全速力で廊下を走っていた。

 あの赤い瞳から強烈な悪意を感じたからだ。

 あの部屋にはられない! 逃げなければ!


 いつもは長く感じない廊下も、無限に続くかのような錯覚に陥る。

「ハッ……。ハハッ……」

 息苦しい。気づけば口も鼻も、動物実験用マスクで覆ったままだった。

 実験室から出る際、扉近くのゴミ箱に入れて処分するべきマスクだ。実験室内と廊下とは明確に区分されているからこそ、各実験室の扉に「BIOHAZARD」と掲げられているのだ。

 マスクだけではなく、ガウンやキャップ帽も装着したまま。きちんとゴミ箱に投げ入れてきたのは、血まみれで気持ち悪いゴム手袋だけ。

 ルール違反は承知の上で、マスクを廊下に投げ捨てる。無事に終わったらあとで拾いに来ればいい。それが出来るよう祈る、一種の願掛けだった。

 まずは、この得体えたいの知れぬモノから逃げ切ることだ。


 ゾクッとする感触。

 首筋の不快感に振り返ると、かなり近づいていた。

 黒っぽくて不気味な存在だが、はっきり「黒」という色がえるのではなく、半透明でユラユラしている。でも「る」という存在感は圧倒的だった。

 これが幽霊なのだろう。

 場所が場所なだけに、そして俺のおこないがおこないなだけに、マウスの悪霊なのだろう。

 守護霊みたいな好意的な霊でなく、俺を害する意思に満ちた悪霊。

 それがすぐ背後まで迫っていた。


「……!」

 もはや悲鳴にすらならない声。

 最後の力を振り絞り、さらにスピードを上げて走り逃げる。

 これに捕まったら助からない。そんな想いに駆られていた。


 ズンッ!

 風もないのに、強風に背中を押されるような感覚。

 いわゆる霊圧とか、霊的プレッシャーだろうか。初めて経験する感触だった。

 出口は幸い、もうすぐだ。

 動物実験棟から外へ出たところで、助かる保証はないが、それでも悪霊の生まれた場所から離れることに意味がある。そんな強迫観念にも囚われていた。


「悪夢だ……」

 出口が見えて少しホッとしたのか、俺は言葉を取り戻したらしい。

 眠っている間に見る悪夢ならば、走っても走っても前へ進まないこともあるだろう。だが夢や幻ではなく、悪夢のような現実だから、出口との距離は確実に縮まっていた。

 あいつの手に撫でられる感覚を、時々背中に感じながらも。


――――――――――


「……出たっ!」

 扉を開けた途端、叫んでしまう。

 ついに動物実験棟から飛び出したのだ。

 外は真っ暗だったが、心地よい風が吹いていた。

 先ほどの「風もないのに背中を押されるような」ではなく、本物の風が頬に当たる。生きていると実感できる感触だった。

 振り返れば、つい今さっきまで俺を追っていた悪霊あれの姿は、完全に消えていた。


 しばらく立ちすくんだあと、動物実験室へと戻る。

 先ほどまでの恐怖は嘘のように消えて、代わりに「確かめなければ」という使命感が生まれていた。

 投げ捨てたマスクを途中の廊下で拾う。所定のゴミ箱へ捨てて、新しいマスクを装着。手袋も新しいゴム手袋を用意して、途中だった片付けの続きを行う。


 紙テープも椅子もハサミも、もはや動いていなかった。

 死骸だらけのゴミ袋を恐る恐る覗き込むと、そこも正常な状態に戻っていた。赤く輝く瞳など見当たらない。

 それを確認して、きっちりと袋の口を閉じた瞬間。

「ああ、これで完全に終わりだ。平穏な日常が帰ってきた……」

 と、安堵の実感を口にするのだった。


――――――――――


 あれが何だったのか、結局その正体は不明のままだ。

 悪霊に襲われた話も、誰にも告げていないが……。


 後日、脳サンプルを解析していたら、一匹だけ極端な個体が存在していたことに気づいた。

 組換えウイルス感染により目的の遺伝子――機能未知の遺伝子――が活発になるのは良いが、その活性化の度合いが桁外れに大きかったのだ。

 個体差の一言で片付ければそれまでだが、この遺伝子が活発になった結果、このマウスの脳内では何が起こったのだろうか? とりあえず免疫関連を調べる限り、特にRウイルス感染に影響した様子は見られなかった。

 そこで俺の頭の中に一つの仮説が、自分でも突拍子もないと思える説が浮かんでしまう。

 この個体こそが、例の悪霊を生み出したマウス。死骸袋の中で赤眼を光らせていたマウスだったのではないか、という想像だ。


 あの体験から俺もその実在を信じるようになったが、本当に幽霊というものが存在するのであれば、普通に成仏する者もいる以上、死後幽霊となる者には生前から特別な素質があったに違いない。そして「特別な素質」ならば、それも生前の遺伝子に定義されているはず。

 つまり、霊的現象に関与する遺伝子が人間や動物の中に存在することになる。

 もしも俺が研究している遺伝子が――組換えウイルスに取り入れた遺伝子が――免疫ではなく、霊やオカルトに関わっているとしたら……。

 組換えウイルス感染により極端に活性化したマウスから、悪霊が生み出されたとしても不思議ではない。

 ただし組換えウイルスの働きで人為的にが強化されただけだったので、一時的な効力であり、悪霊も短時間で消えたのではないか。


 以上が俺の、今回の顛末に関しての結論だ。

 当然これは上司ボスに報告できるたぐいの話ではなく、俺の研究は現在も続けられている。

 この遺伝子を扱う限り、また似たような出来事が起きるかもしれない。そう考えれば少し怖くもなるが、あの事件でも問題を起こしたマウスは一匹だけ。ならば、そう頻繁に発生する現象でもないのだろう。


 もしも、あの遺伝子の活性が極端に高くなるような個体がまた現れたら……。

 遺伝子活性を調べるたび、その結果を見る前に一瞬身構えてしまうけれど、幸いあれ以来、極端に高い個体には出くわしていない。




(完)

   

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幽霊も遺伝子に規定されている 烏川 ハル @haru_karasugawa

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