第3話

   

 この部屋に入る時点で専用マスクやゴム手袋、紙製ガウンやキャップ帽などは装備済み。返り血対策は万全だ。ガラスとフィルターで囲まれた作業台――安全キャビネットと呼ばれる筐体――で実験するので、まあ「返り血」が飛んでくる可能性はゼロに等しいのだが。


 飼育ケージから一匹のマウスを取り出し、安全キャビネット内の紙製敷物ペーパーシートの上へ。

「キ……キキキ……」

 おのれの運命を知らぬマウスが、俺の手の中で可愛らしく鳴く。

 マウスなんて所詮しょせんネズミと思われるかもしれないが、同じネズミでもラットとは違う。元がドブネズミなので比較的大型なラットに対して、マウスは小さく、それだけで可愛げがある。

 特に実験動物として用いられるのはアルビノマウスだから、雪のように白い毛並みとルビーのように赤く輝く瞳を持つ。そんな可愛らしい小動物に麻酔薬を嗅がせて、眠り込んだところで……。

 俺は心を鬼にすると、ハサミを手に取り、チョキンと首を切り落とす。

 ドロリ、ポタリと、切断面から血がしたたり落ちた。


 この作業を初めておこなった時は、マウスの首の柔らかさに驚いたものだ。動物の骨はもっと硬いと誤解していたからだ。

 しかし考えてみれば、動物といってもマウスは小さい。とても小さい。だからその分、柔らかいのだろう。理屈としては当然なのに、初めて経験するまで気づかないことだった。


 続いて、首から先のなくなった体を、かたわらの袋の中へ。要するにゴミ袋へ入れるのだ。可愛かったマウスも物言わぬ死体となれば、それ相応の対処が必要となる。

 死体として見ればもう心も痛まず、俺は切り落としたマウスの頭部を拾い上げる。こちらは胴体とは違って大切に扱う。サンプルとして必要な「脳」が入っているからだ。

 肝心の脳を傷つけないよう注意しながら、首の切断面からマウスの鼻先へ向かって、頭部上側にハサミを入れていく。頭の上に一筋の切れ目を作るように頭蓋骨をカットして、切れ目に指を入れると左右にめくり、スプーン状の器具で中身の脳を取り出す。

 例えばエビやカニを食べる際、その殻に切れ目を入れて、殻を剥いて中の身肉を取り出すが、あれと同じ感覚だった。

 これも先ほどと同じく、初めての時に柔らかさを実感して驚いたものだ。まさか動物の頭蓋骨が、エビやカニの殻と同じ感触とは……。


 取り出した脳をプラスチック製の試験管に入れて、氷箱アイスボックスに保管してから、残骸となったマウス頭部を胴体と同じくゴミ袋へ。

 これで、ようやく一匹目が終了。その後、同じ行程を何度も何度も繰り返して……。


――――――――――


「ふうぅ……」

 脳サンプルを全て回収し終わって溜め息ひとつ。

 残りは片付けだけだ。


 実験台の上には今、最後の一匹の頭部が置かれていた。だらしなく口を開いた、いや口だけでなく頭蓋骨まで強引にこじけられた、マウスの頭。

 あの「ルビーのように赤く輝く瞳」も光を失って、どす黒くなっている。血液の消失が原因だが、まるで命の輝きの喪失に感じられた。

 そんな最後の頭をビニール袋に入れると、ほとんど袋は満杯。しかし袋の口を閉じようと紙テープに手を伸ばした瞬間、あり得ない出来事を目撃する。

 紙テープがスーッと横へ、俺から逃げるように動いたのだ!

 実験台が斜めだったはずもなく、こんな現象は初めてだが……。

 まだほんの序の口に過ぎなかった。

 ガタッ、ガタッと音を立てて、今度は俺の座っている椅子が動き出す。下から俺を突き上げるみたいな勢いだ。

 地震などではない。背後に並んだ飼育ケージどころか、目の前の安全キャビネットすら揺れていないのだから。


「な、なんだ……?」

 驚きが声になって出てしまう。

 動揺する俺に向かって、ネズミの頭を切り落としたハサミが動き出す。勢いよく刺そうとするほどではないが、ゆっくり確実に俺を狙っていた。

「……馬鹿な!」

 紙テープや椅子やハサミが意思を持って動くなど、とても考えられない。たとえ姿は見えずとも、誰かが手で動かしていると考えた方が、まだ少しは合理的だろう。

「誰だ! 誰がいるんだ?」

 立ち上がって叫んでも返事はない。

 ならば……。


「ポルターガイスト……?」

 論理の飛躍は承知の上で、幽霊の仕業しわざを思い浮かべる。オカルト映画はフィクションとわかっているけれど、それでもそんな解釈に飛びつきたくなるほど混乱していたのだ。

「いやいや、そんなはずは……」

 頭を左右に振って、おのれの考えを否定する。

 病院でも処刑場の跡地でもなく、ここは動物実験棟だ。ここで恨みを残して死んでいく人間などいないのだから。


 そこまで考えた瞬間、一つの可能性に思い至った。恨みを残して死んでいく「人間」はいなくても、理不尽に殺されたものなら大勢おおぜいいるではないか。それこそ今この近くにも……。

 ゆっくりと首を回して、ビニール袋の中を覗き込む。

「……!!」

 目が合ってしまった。

 胴と頭とに分かたれて、物言わぬ死体と成り果てたマウスたちの中。失ったはずの命の輝きを取り戻したかのように、一対の瞳だけが赤く光り、俺を睨んでいるのだった。

   

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