おトなりノ殺人

國灯闇一

201号室ー犯行後

 襲いかかるような雨音が、薄暗い部屋の中に降っていた。

 呼吸を乱し、目を剥いて青ざめた顔をした荻松おぎまつは、目の前で起きている事態を受け止められずにいた。荻松の視線の先には、女性が倒れていた。畳の上にうつ伏せで倒れている女性は微動だにしない。

 

 和室に倒れた女と隣のダイニングキッチンで尻もちをついている男。女が倒れている和室は棚が倒れ、物が散乱している。

 荻松は動揺から脱せずにいたが、なんとか椅子に腰を下ろした。さっきより呼吸は整っているが、顔に生気がない。

 テーブルの上の煙草を取り、ライターで火をつけようとする。手が震え、定まらない。荻松はもう片方の手で右手の震えを押さえる。煙草の先が灯り、煙が立つ。芳醇ほうじゅんな樹液を焦がしたような匂いを含み、吐き出した。苦みは海苔のように口に貼りつく。

 

 ダイニングキッチンの窓から射し込む外灯の光が、薄闇で踊る煙を照らしている。

 外が一瞬、明滅した。その次、重たい轟音ごうおん穿うがたれた。カーテンの隙間から漏れた光は、ほんのわずかな時間、部屋の中を照らした。

 畳みの上に広がる女の長い髪は、赤い水気を帯びていた。女の頭から流れ出た赤い血は畳に垂れている。小さなローテーブルのそばには、血を浴びたトロフィーが転がっている。

 

 倒れた女性は荻松の元妻だった。正式には離婚していないが、事実上離婚しているようなものだった。

 双方とも離婚には合意。だが、財産分与で折り合いがつかなかった。今日もその話し合いだったが、話し合っているうちに熱くなってしまい、もみ合いになった。目についたトロフィーを手にした瞬間、荻松は元妻を殴っていた。一撃の感触がまだ手に残っている。

 倒れたまま、動かない元妻の様子からして、息絶えてしまったと荻松は悟った。

 

 荻松は後悔に頭を抱え、この先のことを考えようとしていた。

 死体を隠す?

 荻松はミステリードラマで犯人が死体をバラバラにする話を思い出す。しかし、今ここに死体をバラバラにできる刃物なんてなかった。また、この安いマンションの風呂場は狭い。人間をバラバラにできるスペースなどなかった。

 このまま逃げる?

 それとも、自首?

 どちらにしても、男は恐ろしくてたまらなかった。

 その時だ。男の心臓を突くような高い音が響いた。

 

 訪問者を知らせるインターホンだった。

 荻松はスマホを探し回る。床に落ちていたスマホを取り、時間を確認する。

 割れた画面が22時04分を告げていた。

 こんな時間に誰だ、と思考を巡らせていると、またインターホンが鳴った。荻松には突然訪ねてくる友人に覚えがなかった。この時間に訪ねてくる人物がいるとすれば、はた迷惑な酔っ払いか、人生に迷い、あらぬ方向へ進む暇なヤツだ。


 荻松が悠長に物思いに耽っている間も、何度もインターホンが鳴っていた。ゆっくりと、一定のリズムで……。セールスでもこんなにしつこいことはない。こんな日に限って……と、間の悪い訪問者に愚痴をぶつける。

 荻松はめんどくさそうに玄関へ向かおうとした。その時、嫌な予感が降って湧いた。荻松は死体に視線を向ける。玄関へ向かおうとした位置から、足が見えている。死体は和室にあるが、足の先がダイニングキッチンに出ていた。これでは玄関からも見えてしまう。

 荻松は顔をしかめ、玄関と和室を交互に見る。インターホンは鳴りやまない。

 

 やむを得ず、荻松は和室へ向かう。

 血だまりを踏まないよう慎重に足を踏み入れる。死体の両脇に手を差しこみ、上半身を持ち上げる。わずかな光を受けた髪が不気味にテカっている。

 体勢上、荻松の顔が女の頭に接近している状態だった。

 荻松はなるべく女の頭を見ないようにした。女の開いたままの目や開いた口など、殺した人間の顔を見たくなかった。死体を部屋の奥へ引きずる。死体が畳に擦れる音が鼓膜に触れる。荻松はゆっくり死体を置いた。玄関から見えないことを確認する。

 

 雨音をかき消すようなインターホンはまだ鳴っていた。

 ここまで粘る訪問者は早々いない。憤怒を腹に抱えながら玄関へ向かう。ドアスコープを覗くと、知らないおじさんがいる。配達員ではなさそうだ。

 ドアを開け、眉間に皺を寄せて睨みつけた。

 荻松を見るなり、にこっと笑った。

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