第7話 「信じる者たち」

第7話 「信じる者たち」


【ブロック1|パンの匂い】


裁判の日の朝、町にはパンの匂いがした。

焼きたての香り。小麦の甘さ。

それが、なぜか胸を悪くする。


広場へ向かう人々は、普段よりきちんとしていた。

髪を整え、襟を正し、靴の泥を落とす。

祭りの日みたいに。


「急がないと、前が見えなくなるぞ」


父親が子どもに言う。

声は穏やかだ。

手は温かい。

その温かさが、アンナには遠い。


【ブロック2|祈りの声】


教会の鐘が鳴る。

音が胸に響く。

群衆が、自然に祈りの形になる。


「主よ、我らを守りたまえ」


「アーメン」


声が重なる。

その声は、怒鳴り声ではない。

優しい声だ。

いつも、家族に向けて使う声。


アンナは、牢の窓の小さな穴から、その声を聞いた。

声が、風に運ばれてくる。


――あの人たちが、私を殺すのか。

そう思ってしまい、喉が熱くなる。


【ブロック3|ハンス】


ハンスが、広場の端に立っていた。

帽子を胸の前で握りしめている。

その手は、土で硬くなった手だ。

子どもの頭を撫でる手でもある。


隣に妻がいて、子どもが二人。

子どもはパンを齧っている。

ぽろぽろ落ちた屑が、石畳に散る。


「父さん、魔女って、ほんとにいるの?」


子どもの声。

無邪気で、明るい。


ハンスはすぐ答えられない。

口が、いったん閉じる。


「……いる、らしい」


「見たことあるの?」


「ない」


子どもは目を丸くする。


「ないのに、どうして分かるの?」


ハンスは笑いかけようとして、失敗した顔になった。


【ブロック4|善良な男の理屈】


妻が、そっと言った。


「ハンス。あなた、顔色が悪い」


「……牛が」


「また?」


「出ない。乳が」


妻は唇を噛む。

それは怒りじゃなく、生活の噛みしめだ。


「神様が試してるのかしら」


妻が言うと、ハンスは首を振った。


「試しなら……耐える」


そして、息を吐いて言う。


「でも、悪魔なら……追い払わないと」


妻は目を伏せる。

目を伏せたまま、頷いた。


「子どもがいるものね」


その一言が、刃になる。

刃は光らない。

家庭の言葉の形をしている。


【ブロック5|広場の熱】


広場は、人の熱で温かい。

冬でもないのに、汗の匂いがする。

香油の甘さに混じって、緊張の酸っぱさ。


「今日は、決着がつくんだって」


「やっと眠れるわ」


「夜、犬が吠えるたびに怖かった」


「畑も、今年は……」


人々は、囁き合う。

声は小さいのに、内容は重い。


「原因が分かるって、救いよね」


救い。

その言葉が、胸に刺さる。


【ブロック6|審問官の声】


マティアスが現れる。

外套が揺れ、十字が光る。


「神の名において」


その一言で、広場が静まる。

静まり方が、美しい。

整列する祈り。


「我々は、憎しみのために裁くのではありません」


誰かが頷く。


「愛のためです」


さらに頷きが広がる。


「町を守るため」


「子どもを守るため」


「魂を守るため」


善意が、次々に繋がっていく。

鎖みたいに。


【ブロック7|牢から連れ出される】


アンナたちは、広場へ引き出される。

鉄の音。鎖の音。

日差しが眩しく、目が痛い。


「……見ないで」


隣の女が囁く。


「見られてる方が、怖いのに」


アンナが言うと、女は小さく笑って泣いた。


「だって、見られると……人じゃなくなる」


アンナは答えられない。

自分も、もう人じゃない気がした。


【ブロック8|声の届かない場所】


マティアスが言う。


「証言を」


人々は、前に出る。

一人ずつ。

堂々と。


「牛の乳が出なくなりました」


「子どもが熱を出しました」


「夜、悪夢を見ました」


「畑が枯れました」


皆、真面目な顔をしている。

嘘をついている顔ではない。

だから怖い。


アンナは小さく言う。


「それは……私じゃ……」


声は、群衆に飲まれて消えた。

声が消えると、存在も消える。


【ブロック9|ハンスの一歩】


ハンスが、前に出た。

その瞬間、アンナの心臓が跳ねる。


「ハンス……」


呼んでも、届かない。

彼の耳は、もう別の声を聞いている。


「私は……」


ハンスの声は震えていた。

震えているのは、良心のせいではない。

恐怖のせいだ。


「私は、善良な市民です」


その言葉を言うために、前に出た。


「家族がいます。子どもがいます」


ハンスは、後ろの妻と子どもを振り返る。

子どもが、手を振る。

その手が、小さく揺れる。


「私は、町を守りたい」


アンナの喉が、ぎゅっと締まる。


【ブロック10|決定的な一言】


マティアスが、ハンスに尋ねる。


「あなたは、彼女を知っている」


ハンスは頷く。


「アンナを」


「はい」


「彼女は、どんな女ですか」


どんな女。

何をしたかではなく、どんな女か。


ハンスは、唇を開き、閉じ、また開いた。


「……泣かなかった」


その言葉が落ちた瞬間、

広場が、ひとつの生き物みたいに息を吸った。


「夫が死んだ時、泣かなかった」


アンナの視界が揺れる。

痛みではない。

終わったという感覚。


【ブロック11|善意の宣言】


ハンスは、自分に言い聞かせるように言った。


「これは……神のためだ」


その声は、怒りじゃない。

泣きそうな声だ。


「子どもを……守るためだ」


妻が、そっと彼の腕に触れる。

優しい触れ方。

その優しさが、アンナを焼く。


群衆が頷く。


「そうよ」

「神のため」

「町のため」


善意が、拍手のように重なる。


【ブロック12|最も残酷な瞬間】


アンナは、叫びたかった。

「違う」と。

「私は、あなたたちの敵じゃない」と。


でも、声は出なかった。

出したところで、届かないと知ってしまったから。


マティアスが、静かに言う。


「よろしい」


その一言で、

善意は正式な形になった。


善意が、最も残酷になる瞬間だった。




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