第2話 「神の名を借りた声」

第2話 「神の名を借りた声」


町道に、車輪の音が響いた。

ぎし、ぎし、と、濡れた木がきしむ音。石畳に刻まれた轍が、ゆっくりと増えていく。朝の霧はまだ残っていて、車の輪郭を白くぼかしていた。馬の鼻息が近づくにつれ、汗と革と、遠い土地の埃の匂いが混じる。


アンナは、戸口の影に身を置いた。

胸の奥が、理由もなく冷える。

来る、と誰かが言っていた。

来る前から、町はもう、来たあとの顔をしていた。


「……来たわ」


囁く声。

市場の女たちが、布を抱え、桶を持ち、祈りの形をした好奇心で道を塞ぐ。子どもたちは大人の背中の隙間から覗き、老人たちは一歩引いて、だが視線だけは逃がさない。


馬車が止まる。

御者が降り、扉が開く。

黒い外套の裾が、霧を割った。


男は、背が高かった。

いや、高く見えた。姿勢がまっすぐで、視線が迷わない。顔は若くも老いてもいない。決断に慣れた人間の顔だ。外套の胸元には、金属の十字が静かに光っている。


「神の祝福が、この町にありますように」


低い声が、霧の中に落ちた。

祈りの言葉なのに、命令のように響く。


「アーメン」


誰かが言い、すぐに声が重なった。

アンナは、言わなかった。

言わないことが、目立つと知っていながら。


男は、腕に抱えた一冊の本を持ち上げた。

分厚い。革の表紙は擦り切れ、角が白くなっている。何度も開かれ、何度も閉じられた重さ。紙の匂いが、遠くからでも分かる。古い紙。乾いたインク。人の手の脂。


「これは――」


男は、本の背を軽く叩いた。


「魔女への鉄槌」


その言葉が、空気を切った。

知らないはずなのに、町の人々は頷く。

名前だけが、もう歩いている。


「神と教会の権威に基づき、異端と魔術を裁くための書です」


アンナの喉が鳴った。

“裁く”。

その言葉が、冷たい水みたいに背中を流れる。


男は、広場の中央に進み出た。

石畳の上に立つと、足音が止まり、視線が集まる。

彼は、それを当然のように受け取った。


「私は、異端審問官マティアス」


名乗りは簡潔だった。

拍手も、歓声もない。だが、沈黙が、承認の代わりに置かれる。


「この町では、不穏な兆しが報告されています」


誰かが咳をした。

別の誰かが、子どもの口を塞ぐ。


「凶作。病。家畜の異変。説明のつかない死」


マティアスの声は、淡々としていた。

感情がないわけではない。ただ、感情が声に出ない。


「神は試練を与えます。だが、悪魔もまた、隙を探します」


アンナは、手のひらに汗をかいているのに気づいた。

冷たいはずの朝なのに、指先がじっとり濡れる。


「我々の務めは、混乱の中から真実を見つけること」


マティアスは、広場をゆっくり見渡した。

視線が、ひとり、またひとりと止まる。

そして――一瞬、アンナの方を見る。


視線が、絡む。

絡んだ瞬間、アンナは息を止めていた。

理由は分からない。ただ、獣に見られた時の感覚に近い。

逃げるな、と身体が言う。

動くな、と別の声が言う。


「心配はいりません」


マティアスは、穏やかに言った。


「正しい者は、守られます」


その言葉に、誰かがほっと息を吐いた。

アンナの胸は、逆に重くなる。

“正しい者”。

誰が、それを決めるのか。


「……証拠は?」


不意に、若い男の声がした。

ルーカスだった。記録係。羽ペンを握りしめ、緊張で肩が上がっている。


マティアスは、微笑んだ。

微笑みは、教師が生徒を諭す時のそれに似ていた。


「良い質問です」


彼は、本を開いた。

紙が擦れる音。

その音が、やけに大きく聞こえる。


「魔女は、嘘をつきます」


マティアスは、はっきりと言った。


「ゆえに、証拠は不要です」


ざわめき。

短い、しかし鋭いざわめき。


「自白こそが、真実への扉」


マティアスの指が、紙の一節をなぞる。

その指は、震えていない。


「沈黙は、抵抗。抵抗は、罪」


アンナの耳鳴りが強くなる。

言葉が、遠くで鳴っているみたいだ。


「泣き叫ぶ者も、否定する者も、皆、悪魔の術中にあります」


誰かが、アンナの方を見た。

それに気づいて、別の誰かも見る。

視線が、波のように広がる。


「だが」


マティアスは声を落とした。

人々は、自然と前のめりになる。


「神は、慈悲深い」


彼は本を閉じた。

重い音。


「悔い改める機会は、与えられます」


その“機会”が、何を意味するのか。

アンナは、分かってしまった気がした。

胸の奥が、きゅっと縮む。


広場の端で、グレーテが頷いた。

「ほらね」と言わんばかりに。

ハンスは、帽子のつばを握りしめている。

指が白い。


「これより、聞き取りを始めます」


マティアスの声が、朝の鐘の余韻に重なる。


「名を呼ばれた者は、前へ」


沈黙。

名前が、まだ呼ばれていない沈黙。

その沈黙が、いちばん重い。


アンナは、自分の呼吸の音がうるさく感じた。

吸って、吐いて。

それだけで、何かを疑われている気がする。


「恐れることはありません」


マティアスは、最後にそう言った。


「真実は、必ず語られます」


アンナは、心の中で問い返す。


――誰が、語るのだろう。

――誰の言葉が、真実になるのだろう。


彼女の唇は、開かなかった。

開かなかったことが、すでに意味を持ち始めている。


神の名が、広場に響く。

その響きは、祈りの形をして、刃のように落ちてきた。


アンナは思った。


――ここでは、言葉は救いではない。

――ここでは、言葉は、すでに奪われている。


霧が、ゆっくりと晴れていく。

だが、町の空気は、ますます重くなっていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る